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運動のできない私を、勉強からも遠ざけた「母の罵倒」習慣……第8話 テストの川流し

 すると、不意に向かいのビルの窓が開いて「どうしたの?」と男性が声をかけた。用水路と泣きじゃくる小学生と散らばったテストを目にして即座に状況を理解したのか、男性はすぐに駆けつけてくれた。私にとっては深くて大きな用水路に軽々と下りたって、
「ここジャンプしようとして落としたでしょう! 」
と言いながらテキパキとテストを集めていった。ジャンプしようとして落とした? 全然違う、わざと投げ捨てたのだ、証拠隠滅のために!と思いながらも、誤って落としたことにした方が都合がいいのは明白だったので黙っていた。黙っていたが、嘘をついていることでさらに罪を重ねてしまったようで心苦しい。泣きながらも用水路に積もった雪の上で屈んでいる男性の背中が近く感じ、この用水路は思ったより深くないのだろうかと、錯視の映像を見ているような不思議な感覚になった。
 男性はこともなく用水路から上がり「あちゃあ、テストびちゃびちゃだね、こっちで乾かしてあげる」と私たちをビルの中に招いてくれた。  
 そのビルは最近できた住宅販売の会社で、できたばかりの頃にここの駐車場スペースをあえて通って信号機まで1秒ほどショートカットする遊びを楽しんでいたので、そのことがバレたら怒られるかもしれないと身を固くしてビルに入った。ここの社員らしきその男性は会議室のような場所にテストを並べ、「こんなにいい点数ばっかりなのに、汚れちゃってもったいないね」などと言いながらテストにドライヤーを当てている。こんなにいい点数ばかり?と私は耳を疑った。たしかに冷静になってみると、70点台のテストもあるもののほとんどが80点台で、90点のテストもあった。私はさっきまで「お母さんに怒られる」とパニックだったが、どうやら他人からみれば悪い点数じゃないらしい。そういえばリエちゃんもよっぽどじゃない限りテストの点数では怒られないようだったし、クラスメイトのほとんどが点数が悪くても軽くたしなめられるだけで、こっぴどく怒られたりはしないようだった。この時初めて、うちの親って他の親より怖いのだろうかと思いはじめた。

 母の怒り方はなかなか迫力がある。大きな声、机をバシバシ叩く、時に悲鳴にも似た声を上げ激昂する。60点台の時は、
「おめ、なしてこんたら点数とってんだ? ああ? バガっ子でねが? ハアッ(ため息) 何この字! 汚ね字! オメだば字がダメだもの! 字だばしっかりかげって言ってらべ? 名前も何コレ! ぐじゃぐじゃって! こんたらもの読めね! あーーーーー(悲鳴のような甲高い声) なしてこんな簡単な問題間違えるんだ? おめ授業聞いでらんだが? 毎日毎日ぼけーっとテレビみでディズニー行きてだのなんだのってへってらばって、こんた点数だば連れでいげね! なんも勉強してね! とにかくおめは努力がたりねのだ! あだまさくるなオメだば! だいたいオメは普段からダメなのだ普段から! この間だって……」
という形で、点数の悪さ、どの問題を間違えたか、それがどう日頃の怠惰具合と人格に紐付いてここに点数として表れているか、この倍くらいのセンテンスで怒号として発せられる。怒鳴られて泣きじゃくりながらも、これって30点台のときの怒り方じゃないのか?と思ったりもしていたが、一言でも言い返すとその10倍くらいで返ってくるのでやめたほうがいい。    
 もちろん母に怒られるのが嫌なら勉強すればいいのだが、好きな教科は80~100点を取ることもあり、苦手な教科も60~70点台が多くそれで満足していたので勉強を頑張ることはなかった。それに、こんなにも怒鳴られておずおずと勉強するなんて気持ちの面でものすごく嫌だった。幼少の私は、怒られている間はいつも言葉を出すことができなくなり、言いたいことが頭の中を駆け巡っているものの無言を脱することができなかった。それは感情を思った通りに正しく言葉にする自信がない、さらにその「思ったこと」が母にとって、または一般常識に照らして正しくなければまた怒られてしまうという恐怖も理由の一つだった。

 小学校1年生の頃に、私の説明が拙いせいか、先生にとんでもない嘘をついて早退したと母が勘違いしものすごく怒られた経験がある。そしてそれは訂正される機会がないまま過ぎた。このように正確に伝えられなかったあやふやな一言が検挙され、さらなる言葉の拷問にあう、そう思うと説教中の言葉に「それは違う」と訂正したい箇所があっても押し黙ることしかできず、まるで四肢がないかのように言葉も体も身動きがとれない。そんなわけで、言い返せないがために説教中は無抵抗で侵略され尽くすので、親に言われて勉強するなんて二重の敗北を意味するようでどうしてもやりたくなかった。唯一の抵抗が「勉強しない自由」だったのだろうか。
 今となっては勉強していい点数をとって親を怒らせないのが最善策、そして自分の将来のための建設的な行動なので、今すぐやれ! 5分でいいからやれ!と言いたくなるが。ちなみに小学2年生のある日、母が「これで勉強しなさい」と持ってきた『はつらつ』という通信教材も6年生まで届き続けたが白紙で捨てることとなる。あの有名な『チャレンジ』ではなかったことが長年の謎だった。

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冬野梅子

漫画家。2019年『マッチングアプリで会った人だろ!』で 「清野とおるエッセイ漫画大賞」期待賞を受賞。その後『普通の人でいいのに!』(モーニング月例賞2020年5月期奨励賞受賞作)が公開されるやいなや、あまりにもリアルな自意識描写がTwitterを中心に話題となり、一大論争を巻き起こした。2022年7月に、派遣社員・菊池あみ子の生き地獄を描いた『まじめな会社員』(講談社)全4巻が完結。
講談社のマンガWEBコミックDAYSにて「スルーロマンス」連載中。

Twitter @umek3o

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