2021.8.13
「チヨちゃんが来たんだね」
そんなある時。
例によって両親の罵声で目が覚めた。それに加えて、鈍く重い音、ガラスが割れる音も重なる。今夜は物まで投げあっているようだ。
私はただ息を殺し、じっと天井を見つめる。そのうちに少女の影が見えてくる。
ただ今夜だけ、形がいつもと違っていた。
両脚が、体からちぎれているのだ。細長い二本のシルエットが、胴体の下でゆらゆらと揺れている。
──違う、私の影じゃない。
幼いながらにそう気づいた。すると影が、ゆっくり天井からこちらに降りてくるではないか。そのまま黒い少女の顔が、私の耳元に近づいてきて……。
そこで気を失ってしまった。
父と母が別れたのは、それからすぐのことだった。
私の思い出話を聞いた母は、ワインを注ぎながら眉をひそめた。
「それ……チヨちゃんが来たんだね」
とても昔のことだ。母の叔母にあたるチヨという人が、六歳の時に亡くなった。
列車にはねられての事故だった。両脚が切断された、むごたらしい遺体だったという。
それからというもの、近親者の多くが、たびたびチヨらしき人影を見かけているのだ。
死んだ時のままの、両脚がない幼女の姿を。
そして彼女が目撃された後はきまって、家族の誰かが死別や離別を経験するのだという。
母方の親戚にとって、チヨは不幸の前兆を報せてくれる存在なのだ。
「あんたの親が離婚するよって、心配して教えに来たのかねえ……」
母はため息をつき、ワイングラスを口に運んだ。
……そうなのかな。いや、そうじゃないだろう。
あの人影が本当に「チヨ」だったとしても、それはけっして私を心配していたのではない。天井から降りてきた影は、私に向かってこう呟いていた。
死ね、もう死ね、死ね、死ね、死ね……、と。
8月6日 あの家に住んでいた頃のこと
8月9日 川の上流から流れてくるもの
8月13日 「チヨちゃんが来たんだね」
8月16日 小人が見える女子大生
8月20日 夏休みに流れた噂
8月23日 振り向いてくれない美人教師
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7月4日 設置されては撤去されるブランコの秘密
7月6日 クラスメイトの机に置かれた手紙
7月9日 誰も来ないはずの男子トイレで目にしたもの
7月13日 息子に見えている母の顔
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7月22日 僕にだけ聞こえてくる音
7月27日 この子は大人になる前に死ぬから
7月30日 隙間から入り込もうとするもの