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【最大の失敗】農家が1200万円の最新型トラクターを買って大損した話

購入したトラクターの顛末

 銀座で乗せた二人の客の行き先が町田経由の鎌倉までで料金は2万7000円もでたとか、自分が育てた米の味こそは日本一だとか小林奈々絵ちゃんの声がかわいいだとか、彼にとって〝いい話〟をするとき、決まって「好々爺」という言葉はこのときの彼のためにあると思えるくらいの破顔を見せる。逆もある。選挙で民主党の候補者に投票したのが知られて村八分にされたことがあるとか、藤枝のばか息子と陰口を叩かれたとか交通違反で捕まってしまったとか、後ろ向きな話題になると、とたんに眉間にしわを寄せ、顔を強張らせる。麻雀やポーカーゲームだったらカモにされるのは請け合いで、子ども相手のばば抜きでも勝てそうもない、そのときどきの心情がそのまま正直に顔に表れる彼なのである。そんな彼が、これ以上はないというくらいのしかめっ面で「最大の失敗」と口にするのは、食用ほおずきの誤算よりもずっと前の出来事、結婚から2年後、1983年4月に購入したトラクターの顚末だった。

 コマツの最新型のトラクターは、運転室にテレビ、エアコンは当たり前のフル装備で、流行の水平器がついている高級機、コンピュータ制御によって棚田の土を水平に起こし、水田の水が均等にいきわたるようにしてくれる優れものである。販売会社が、峰田農協管内の農家を対象にデモンストレーションのために持ち込んだのだ。価格は、メルセデス・ベンツ、Sクラスなみの1200万円と聞いて一瞬はひるんだけれど、それでも彼は、このトラクターを買うことにした。頭にあったのは〝現金収入〟だった。田植えの時期を前にして、どこの農家も田の土を起こす。最新型のこのトラクターがあれば、手がかかるその作業を代行できると考えた。1反で7000円は取れるとして、1町で7万円。農家5軒分も耕せば、田植え前の時期だけで30万円を超える現金が入るだろうとの皮算用が働いたのだ。トラクターの金額が金額だけにまわりの人たちは皮算用に不安を覚えていたが、彼は「大丈夫だ」と一蹴している。そうは言っても世の夫の「大丈夫」が大丈夫だったためしはなく、ましてや〝夫〟の〝皮算用〟なのだから妻の不安は2倍に膨らむ。宝くじには当たらなくても、この手の不安はよく当たるのが通り相場で、案の定、皮算用は外れ、毎月13万円の支払いが重くのしかかってきた。それでなくとも3代前からの農協への借金の残り250万円を背負っている彼だ。トラクターは手放すしかなかった。680万円で売り払い、彼のもとには、でかい借金と、嬉しくない陰口、「藤枝のばか息子」だけが残ったのだった。

 彼は、見栄っ張りな人物ではないけれど、彼の会話のなかに「見栄」という言葉が自然に混じるときがある。本人がそれに気づいているか疑わしいが、彼の価値観が、歌舞伎役者が切る見栄にも似たそれをぞんざいにしていないのだけは間違いない。地域の担い手として頼られる存在であろうとするのも農協の誘いに先頭を切って応じるのも、根っこを辿ってみればそこに行き着くのかもしれない。藤枝家の跡取りとしての強い自負も、それと無縁ではないのかもしれない。そして、藤枝の跡取りだから、と、その思いの強さと等しいだけの農協への借金だった。ひとりの農業従事者としては一流でも、農業経営体の経営者としては二流ゆえの農協への借金だった。借金が膨らんでいく。いまならさしずめ「古民家」と呼ばれてもてはやされたであろう古風な造りの自宅を取り壊し、高級なモデルハウスばりに建て直したのは彼が43歳のときである。空中写真で見る新築のそれは、「黒」と言ってもいいくらい濃い緑の人工林のなかにぽつんと現れる赤い屋根と白い壁の豪邸を思わせるもので、建築を請け負った住宅会社の営業担当者が「モデル住宅としてパンフレットに載せたい」と訪ねてきたのは後々まで彼の鼻を高くさせている。どうだとばかり、藤枝の跡取りらしく胸を張り、ご先祖様にも見栄を切った。建て直しにかかった費用は3500万円。金のでどころは「借り入れ」だった。

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新刊紹介

矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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