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脊柱管狭窄症と借金に苦しんだアラフィフ農家の決断

タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』。 日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載。ウェブ用に一部編集部で修正しています) 前回に続き、大分から上京してタクシー運転手になった中年男性の過去が語られます。

いつも鏡を見てる 第15話

無音のゴング 2001年4月26日

 うッ、と唸った自分の声で目が覚めた。それからすぐに背中と腰がびりびり痺れるような、それでいて鉛の塊でも突っ込まれたような不快感が襲ってきた。とてつもない痛みだった。息が止まった。深夜二時、起き上がることができず、寝返りも無理。いったいどうしちゃったんだ、と、不安を覚えながら、それまで経験したことがない激痛に声もだせず、顔をしかめたまま朝を待った。そのうち楽になるだろう、と。

 若い時分にぎっくり腰をやってしまい、ひどい目にあったことがある。「どれほど重症だって、ぎっくり腰では骨は折れない」。まわりの誰もがそう言ったけれど、自分のぎっくり腰だけは例外だと思った。この尋常でない症状なら折れてしまってもおかしくない。左手で腰を押さえ、情けない姿で壁づたいに歩きだしたとたん腰からがくんと崩れ、あまりの激痛で無意識のうちに息を止めていた。未来永劫この苦しみは治まらないかもしれないと悲愴感いっぱいになりながら、なぜか自分でも泣き笑いが込み上げてきてしまうぎっくり腰。深夜二時に目が覚めた背中と腰の強烈な痛みは、外傷によるそれとはまた違う感覚の〝病的なもの〟を感じさせた。膝を抱えるようにして身体を丸めると、痛みは少しだけ和らいだ。布団のなかでその格好のまま夜明けを待ち、しかし、それでも起き上がることができず、昼をやり過ごし、夕方になろうとしていた。明け方から点けっぱなしのNHKが、甲子園球場で開かれている全国高校野球選手権大会を中継している。3日前の第二試合に登場した大分県代表の柳ケ浦高校は宇佐市にあるものだから応援に力が入ったけれど、日大山形に4対1で敗れ一回戦で早々に姿を消している。テレビは西日本短大付属(福岡県)と佐世保実業(長崎県)の九州勢がともに勝った2回戦の、第3試合、星稜高校と明徳義塾の対戦を振り返り、注目の松井選手が五打席連続で敬遠されたシーンを映していた。

 ぎっくり腰をやってからこっち、腰痛は持病のようなものと決め込んで医者に診てもらったことはない。20歳のとき、納屋で作業をしていて梯子段から滑り落ち、尾てい骨を嫌というほど打って動けなくなっても医者には行かなかった。ソーラーパネルを修理中に屋根から落ち、背中と腰をしたたか打ちつけて気を失ったときはさすがに救急車で運ばれたが、それだって、早々に病院を抜けだして自宅に戻っている。たかが腰痛で医者の世話になるなんて冗談じゃない。そう思ってきたけれど、こんどばかりは病院に行かなければだめかもしれない。画面に映った五打席連続敬遠の場面を黙って見つめながら、大分市内にあるいくつかの総合病院を次々に頭に浮かべていた。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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