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いつも鏡を見てる
タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)

前回に続き、大分から上京してタクシー運転手になった中年男性の過去が語られます。

800万円借金して「ほおずき」栽培に手を出した農夫の末路

いつも鏡を見てる 第13話

農協 1988年8月某日

 事務所といっても畳の部屋にすれば6畳ほどの広さでしかないが、部屋の真ん中をカウンターが仕切り、内側に事務机が2脚、入口側には黒いパイプフレームの簡素なテーブルと椅子が陣取っている。ところ狭しとばかりに積まれたり並べられたりしている書類の山は、いまや、そのほとんどが何の目的でそこに置かれているのかさえ、山積みの書類が何なのかさえ、忘れ去られているとしても不思議ではない。震度5の揺れを想像したくもないこの部屋で、運転手たちが必要とするのは、カウンターの上のアルコール検知器と、すぐ横に無造作に置かれた水揚げのランキング表だけだろう。出番だった運転手の、前日までの水揚げ額を上から順に記したA4版の紙をバインダーに挟んだもので、ぱらぱらとめくってみると成績表は1か月分ほどはありそうだった。彼の名前もある。ランキング表の上から数えて10番目あたりに彼の名前はあって、3日前の営収、5万9300円が記載されていた。彼の勤務形態は、タクシー業界用語で「ナイト」と呼ばれる夜勤で、働く時間は夕方から翌明け方までの半勤である。まる一日勤務する運転手と同等の水揚げを半日で揚げているのだから、5万9300円は、彼がけっこうやり手の運転手であることを示していると見ていい。北光自動車交通に入社してからの数年間は東京のタクシーの一般的な勤務形態である隔勤の運転手として働いていたが、年金受給者となったいま、就労時間が正社員の4分の3以下であることが条件の定時制社員として、週に一度か二度、ナイトの運転手として営業にでるようになっている。週末になると、こんどはこの狭い事務所に詰め、仮眠をとることもなく翌朝の9時まで宿直業務もこなす。かかってくる客からの電話は、たいがい車内への忘れ物に関する問い合わせだ。

 無糖の缶コーヒーとショートホープをテーブルに載せ、テレビを点けると、深夜の再放送が山間の農村の風景を映しだしていた。黙って画面を見つめているうちに、峰田の棚田の風景が彼の脳裏に浮かんできて、すると、破綻へと続く歩みの一歩は、もしかすると3町5反の農地を引き継いだその日から踏みだしていたのかもしれない、と、いつものように思う。そして、振り返ってみれば、それが具体的な形として自分の前に初めて姿を現したのは結婚から8年ほど経った頃だった、と、いつものように確認する。農業従事者としての26年間を冷静に俯瞰で眺めてみると、あの頃の自分は、農協の言葉に隷従しているも同然だったといまならわかる。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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