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いつも鏡を見てる
タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)

前回に続き、大分から上京してタクシー運転手になった中年男性の過去が語られます。

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いつも鏡を見てる 第14話

藤枝のばか息子 1983年4月某日

 芝大門の、通称〈軍艦ビル〉(=芝パークビル)の正面玄関を先頭にした空車のタクシーの列が長く延びて第一京浜の大門交差点を通越し、貿易センタービルのすぐ近くまで続いている。どんな仕事をしている人たちの職場なのか想像したこともないが、深夜でも軍艦ビルからはタクシーで帰宅する人たちがでてくるし、低くない確率で〝当たり〟を引くこともある。大門の交差点で乗る客もいるものだから、長い空車の行列は、時間帯と列の長さから想像するよりはるかに早く、確実に前に進んでいく。金曜日の深夜3時(=土曜日の午前3時)になる少し前、空車の列のずいぶん後方にいた彼は、聴いていたカーラジオを文化放送に合わせた。いつもならNHKの『ラジオ深夜便』を選ぶ時間だけれど、金曜の深夜だけは文化放送と決めている。

 JR浜松町駅前の、広い通りを挟んで貿易センタービルの向かい側に文化放送はあり、深夜三時からの生放送『走れ歌謡曲』は、そこに7つのスタジオ設備を擁するフロアのstudio3が使われている。月曜日から金曜日までの毎深夜、5人の女性が日替わりでパーソナリティを務めるこの番組の金曜日を担当しているのが、彼のお気に入り、小林奈々絵さんなのだ(2019年9月降板)。金曜の夜なのに水揚げが伸びず、頼みの銀座でも空振りで、胸の奥から湧いてきた焦りに彼の気持ちが占領された日、たまたま聴いた小林奈々絵さんの声で落ち着いた。以来、金曜の深夜は彼女の番組と決めている。

 studio3があるフロアの端の窓際に立つと、軍艦ビルに向かって、亀の歩みよりずっと速く前に移動していく空車の行列が眼下に見える。その長い列のなかにいる彼は、大ファンの〝奈々絵ちゃん〟が、直線距離にしたら300メートル足らずの位置にいることを知らない。農閑期になると現金収入を得るために『峰田交通』でタクシー運転手のアルバイトをしてわずかな金を稼いだ時期もあったけれど、まさか、それから15年後に東京でタクシー運転手をすることになるなんて、文化放送の番組を聴きながら深夜の東京を流すことになるなんて、思いもよらない成り行きだった。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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