よみタイ

オイルショックについて教えてくれた元商社マンのタクシー運転手

理解できない中東情勢

 きのうは田淵の逆転満塁ホームランで「阪神首位」が一面で、今日は、10対10での引き分けで終わった阪神-巨人、首位攻防の「超ドラマ」がトップ記事。残り試合数は阪神が5、巨人が4。互いに全勝なら阪神が優勝。巨人が2勝2敗なら、阪神は3勝2敗で優勝。どっちのファンにしてもしびれる毎日が続いている。というような記事をひとしきり読んだついでに谷津さんが読み終えた「石油は大丈夫らしい」と書いた3日前の京都新聞を見た俺が、へ~ッ、そうなのか、と、他人事みたいな感想を漏らすのは無理もなかろう。そんななか、読売新聞・夕刊の記事が俺の興味を引いた。去年、直木賞を受賞した人気作家の井上ひさしが、「抱えすぎた原稿の締め切りに間に合わず、姿をくらました」とかいう冗談みたいな記事の横に、中東戦争の悪化に伴いヨーロッパ各国で石油製品の輸出制限や割り当て実施の準備が始まったことを伝える小さな記事があった。ソ連がエジプトに武器を供与したのに対抗して、米国がイスラエルに武器を新たに供給しようとしているとかで、その報復措置として石油の西側への供給を停止するのは間違いなさそうだというのである。

「ロンドンの石油業界は、アラブ側が米国に対してだけ禁輸することは実際上難しく、西欧諸国ももろにそのとばっちりを受けるとみている」

 どうしてなんだろう、と、記事の意味を理解できずに考え込んだところに畑野の「残り試合数は4と5や、どっちが有利かわからへん。けど、勢いは阪神やろ」の同意を求める声が飛んできて、俺は難しいふたつの問題の答をいっぺんにださないといけない状況になった。本心は「期待させておいて裏切るのが阪神」だったけれど、それは口にはださず、うん、とだけ返し、また、新聞記事の意味を考えだした。言外に「日本は大丈夫だけどね」が読み取れたからだ。ここが俺にはわからない。アメリカに与くみしているからという理由で西欧諸国がとばっちりを受けるのなら、なんで日本は大丈夫なのか、と。そしてなによりも、原油の輸入量の8割を中東に依存しているくせに、日本の、この余裕っぷりが不思議だった。目の前に座っているのが村井さんだったら、面倒くさがらずに気の利いた解説のひとつもしてくれるのだろうに、と思った。だが、俺が抱いた疑問の答は、一か月もしないうちにでた。日本には、たかだか2週間くらい先の中東情勢をまともに分析できる人間が、政府にも霞が関の役所にも、専門家とかいう人のなかにも、ただの一人もいなかった、という意味だったのだ。「石油危機」の文字が初めて新聞の紙面に躍ったのは、それから一週間くらいしか経っていない日のことである。

 テレビから矢継ぎ早に流れだした「石油危機」のニュース。なんだよ、この〝ことの流れ〟は、と、ちょっと呆気にとられてしまったのは俺だけじゃなく、たぶん日本中の誰もがそうだったのではあるまいか。なにしろ、中東が泥沼化しているとかゴラン高原が火の海だとか、戦闘は消耗戦の様相だとか言いながら、それでいて対岸の火事ふうなきのうまでの報道とはまるで別の出来事を伝えるみたいな石油危機報道なのだ。

 運転手たちが公然と口にしていた「タクシー運賃値上げ」が、やっぱり噂ではなく事実だったと世間に広く知られたのはその翌日、10月20日のことだった。

〈営業区域外〉の山川石油

 山川石油から国道一号線をもう少し南に下がれば大手筋の交差点で、そこを西に曲がった先に京都競馬場がある。昼勤のとき、京都駅から乗せた客を何度か運んだことがある。夜勤では、奈良へと続く国道24号線を南に観月橋かんげつきょうの先までとか、宇治のあたりまでとか客を乗せて走ることは何べんかあったけれど、タクシー運転手になってまだ半年ほどしか経っていない俺は、醍醐寺だいごじあたり――醍醐は住所こそ伏見区だが地形的には山科みたいなもの――を別にすれば伏見区を走る機会はほんとに少なくて、だから20リットルの燃料のために山川石油まで走ってくると、まるで営業区域外にでもやってきたような気分になる。それが、いつ終わるとも知れない日課になってしまったが、こうして順番待ちの長い列に並ぶたびに、20リットルは仕方がないにしても、せめて会社の近所のスタンドで給油できないものかと思う。

 勝った方が優勝のセ・リーグ最終戦は、10月22日の甲子園決戦だった。結果は、それまでの〝大一番〟続きがまるで噓だったかのような9対0。やっぱり、期待させておいて裏切る阪神タイガースである。大差で阪神が敗れ巨人がV9を果たし、おさまりのつかない過激な阪神ファンが大暴れした様子が翌日の京都新聞に載った。大敗に激昂し暴徒化した虎ファンが試合が終わるやグラウンドになだれ込んで巨人ベンチに殺到、逃げ遅れた王選手らに殴る蹴るの暴行をはたらき、それを写した写真入りの記事だった。

「その場におったら、わしもやったかもしれん」

 洗車が終わりかけの俺のクルマの前にしゃがみ込んだ谷津さん、洗車は済ませたらしいが納金はまだのようで、釣り銭袋と日報を持ったまま煎餅の袋を破り、「なんや、9対0て」と、二日前の敗戦をまだ怒っている。その谷津さんが話題を変えたのは、出勤してきた村井さんが姿を見せたときだ。「あんたがくるの待っとったんや」と、村井さんに向けた谷津さんの顔がそう言っていた。

「石油価格が70パーセント上がるて、あれ、どういう意味なんや」

 あの日、つまり最終戦で巨人の優勝が決まったのと同じ日、イスラエルとエジプトが停戦を受諾したというニュースがいっせいに流れた。6日に勃発した大規模な戦闘は、日本時間の23日に停止することになったのだ。それなのに、石油危機とやらが消えない。給油のために俺らはまだ下鳥羽まで走っているし、ゆうべだって20リッターしか入れてもらえなかった。

 アラブ産油国は原油生産量を減らし続けていて、そこにもってきてサウジアラビアの国営石油会社が、国際石油資本を通さない日本への直接販売原油の価格を70パーセント引き上げると通告してきた。それを伝える朝日新聞一面トップの「70%値上げ」を伝える記事を目にしたときは、国際情勢に疎い俺でさえ、さすがにびっくり仰天し、どうなってしまうんだろう、と、なんだかわからないけれど漠然とした不安が浮かんできたものだ。そういう思いを抱いたのは谷津さんも同じだったようで、戦闘が終結したのに、なぜ、との疑問が湧いたらしいのだ。その問いにわかりやすく答えてくれるのは村井さんだと谷津さんは考えた。俺も、村井さんなら要領を得た説明をしてくれそうな気がした。

「アラブは、日本をイスラエル側と見とるということやな。アラブの非友好国と見なしたちゅうことや」

「意味わからん」

 谷津さんはしゃがんだままの姿勢で村井さんに煎餅を渡し、そう言った。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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