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川の上流から流れてくるもの

川の上流から流れてくるもの

 硬直した僕の前を、メガネはそのまま通り過ぎ、川下の方へと消えていく。
 すぐ後ろで、草むらがザクザクと音をたてた。
 振り向くと、あいつが立っていた。
 見覚えのある顔が、木々の間からこちらを覗いている。髪も体もびっしょりと濡れている。いつもかけていたメガネはなく、黒々とした瞳で、黙ってじっと見つめてくる。
 三年前、岐阜の渓流で水死したはずの、あいつだ。
 思わず対岸へ逃げようと走り出す。そこで足が滑り、半身が川底に打ちつけられる。腰から下が水に沈み、パニックになる。もがくように両手がばたつく。

「おーい」
 
 そこで上流から声がした。
 はっと気づいて立ち上がると、連れの友人が、こちらに歩いてくるところだった。
 急いで藪に目をやったが、もうそこには人影一つなかった。

「大丈夫?」友人が心配そうに近づいてくる。
「うん、悪い。なんでもない」竿を拾いつつ、とっさに今起きたことをごまかした。
 いつのまにか周りを薄闇が包んでいる。もう帰ろうと僕が提案し、友人も頷いた。
 ただ彼は、なぜか先ほどから、いぶかしそうに後ろの藪をにらみつけている。
「……さっき、そこに、鹿みたいなのがいなかった?」
 鹿? なにを言っているのかわからず、僕はただ怪訝な顔を向けるだけ。
 見間違いだと思うけど、気味悪い鹿に見えたんだよなあ、と友人は笑った。
「それ、体は鹿なんだけど、頭が人間の女なんだ。その女の顔が、林の中からお前のこと、じいっと見つめていたような気がしたんだよ」
 それは友人が近づいたとたん、さっと林の奥へ逃げていったのだという。

8月の『日めくり怪談』特集一覧
8月2日 空を飛ぶ夢を見るようになったら
8月6日 あの家に住んでいた頃のこと
8月9日 川の上流から流れてくるもの
8月13日 「チヨちゃんが来たんだね」
8月16日 小人が見える女子大生
8月20日 夏休みに流れた噂
8月23日 振り向いてくれない美人教師

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7月の『日めくり怪談』特集一覧
7月2日 夜道を歩く女性の二人組が向かう先
7月4日 設置されては撤去されるブランコの秘密
7月6日 クラスメイトの机に置かれた手紙
7月9日 誰も来ないはずの男子トイレで目にしたもの
7月13日 息子に見えている母の顔
7月15日 内線電話から聞こえてくる声
7月19日 祖母に禁じられた遊び
7月22日 僕にだけ聞こえてくる音
7月27日 この子は大人になる前に死ぬから
7月30日 隙間から入り込もうとするもの
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新刊紹介

吉田悠軌

よしだ・ゆうき
1980年東京都出身。怪談、オカルト研究家。怪談サークル「とうもろこしの会」会長。オカルトスポット探訪マガジン『怪処』編集長。実話怪談の取材および収集調査をライフワークとし、執筆活動やメディア出演を行う。
『怪談現場 東京23区』『怪談現場 東海道中』『一行怪談』『禁足地巡礼』『日めくり怪談』『一生忘れない怖い話の語り方 すぐ話せる「実話怪談」入門』『現代怪談考』『新宿怪談』『中央線怪談』など著書多数。

Xアカウント @yoshidakaityou

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