2021.12.7
58歳男性がタクシー会社の面接に落ちまくる理由とは?
とてつもなく厳しい現状
午前五時をちょうど過ぎたところだった。
NHK-FMの『ラジオ深夜便』が終わると同時にラジオを消し、ハイライトをくわえてクルマを降りた。運転席に座っていると気づきもしないが、車外にでたとたん背中も腰もがちがちに固まっているのがわかった。両手を思いっきり上に伸ばし、それから上体を反ったり屈んだりして体をほぐす。あ~、疲れた、と小声で口にし、隔勤は、やっぱり俺には向いてないと思う。ハイライトに火をつけたのはそれからだった。
このまま帰庫するとして、今日の水揚げは税込みで5万8000円。世の中が不況感にどっぷり浸かってしまっているものだから、仕事にでるのが嫌になるくらい暇な日が続いている。そうした状況で日車営収が4万円しかないのを考えると、税込みであっても5万8000円は上出来だと思う。
夜明け前に三条大橋の西詰にクルマを止め、山科方面に向かうその日の最後の客を待ったあのころ、初乗り運賃は150円で、爾後料金は525メートルで30円だった。それが37年も経ったいま、東京では初乗りが710円で爾後料金は90円だというのに、1か月の水揚げだけは大して変わらないのだから、タクシーにとっての古き良き時代を知る運転手にしてみれば現状はとてつもなく厳しく映っているに違いない。客からのクレームなんてないも同然の時代だった。あったとしても、だからどうした、でしかない時代だった。それでもちゃんと稼げる時代だった。けれど、移動手段の発達と多様化が進むにつれて客が減り、やりたい放題だったタクシーは態度をあらため、サービス業として成熟してきた。それはけっこうなことには違いないが、それにしても稼ぐのが難しくなったと思う。視線の先の真っ黒くて細長いパークハイアットのシルエットが少しずつ色を帯び客室の窓の形まで認識できるようになったころ、残しておいたハイライトの最後の1本を取りだし、パッケージをクシャッと握りつぶしてから火をつけた。そのとたん、三条大橋の西詰で仕事終わりにロバート・ジョンソンを聴きながら、同じようにハイライトをふかして客を待った若かりし時分の風景が脳裏に浮かんだ。
これまで京都と東京でタクシー運転手をしたけれど、隔勤だけはやったことがない。京都ではタクシーの勤務形態にそもそも隔勤がないし、リッチネット東京ではナイトの運転手だった。午前8時に出庫するとしたら、途中、都合3時間の休憩を挟んで翌日の午後2時まで18時間の勤務、それを月に11~13乗務する隔勤。たとえば、出番、明け、出番、明け、公休、出番、といったサイクルで相番と交互に勤務するのが基本だ。東京ではこの乗務形態が主流で、大手、中堅の会社では出庫時間も帰庫時間も厳しく決められているようだけれど、北光は、そのあたりはずいぶん緩い。午前中に出庫すればOKみたいな暗黙の了解があるらしく、運転手は、それぞれ自分の働きやすい時間に合わせ出庫していく。私は、午前5時に帰庫したい。そこから逆算すると出庫は11時。遅くとも10時半には出社して、自販機のコーヒーを飲みながら仕事前の一服からスタートする。この日の出番もそうだった。
新宿の自宅から北光自動車交通まで、電車で通勤となると、東京メトロ・副都心線の東新宿駅から3つ目の駅、池袋で東武東上線に乗り換えて東武練馬駅で降りる。ドア・ツー・ドアで50分もみておけば到着だが、ここのところ、天気しだいではあるけれど、愛用のスポーツサイクルで通いはじめた。3か月もすれば体重が落ちて、顔も身体も引き締まってくるのはリッチネットでの自転車通勤で実証済みだ。ただ、師走の東京は少しばかり走りにくいという難がある。12月になったからと言って世の中がどう変わるわけでもないだろうに、半ばを過ぎた都内の道路は妙な慌ただしさがあって、どうにも落ち着きがない。年末に向かって日に日に交通量は増していくし、早朝のトラックは殺気をまき散らしながらすっ飛んで行く。新宿の自宅をでたのは九時なのに、自転車置場で時計を見ると10時ちょうどだった。いつもより10分以上もよけいに時間がかかったのは、交通混雑で車道が走りにくかったせいだった。
自転車を置いたすぐ横の自販機の前にはタイヤのホイールキャップを逆さまにして作った灰皿があって、それを囲むようにして、すでに制服に着替えた二人と、運転手たちから「工場長」と呼ばれている男がコーヒーでも飲んでいるのか白い紙コップを右手に話し込んでいた。彼らの顔はいつも見かけているからよく知っている。愛想のいい小柄な男と黒ぶちの眼鏡をかけた背の高い男は、私とは出番の日がいっしょなら出庫時間もほとんど同じで、しかも、黒ぶちの眼鏡の男とは3、4日前に戸田葬祭場のタクシー乗り場で顔を合わせていた。