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3.11のあの日、パニックになった都内を走らせたタクシー運転手の苦悩

タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)

前回に続き、58歳で北光自動車交通のタクシー運転手になった男の物語です。
2011年3月11日、彼の忘れられない一日が語られます。

いつも鏡を見てる 第18話

あの日 2011年3月11日

 客の態度が怪しくなるのは、気の早い酔っぱらいが現れる午後8時くらいからだ。料金が高いだの遠まわりしただの、プロのくせに道を知らないだのと(それは事実だ)、運転手が浴びた雑言が車内に溜まりだすころである。目的地までの経路を自分で細かく指示したくせに、その道が渋滞していたものだから「何でこんなところを通るんだ」と理不尽にもほどがあるクレームをしつこく飛ばした男は、さんざん悪態をついたあげく降りしなに料金を投げつけた。2枚の千円札が宙を舞い、小銭が運転席のまわりに散らばった。けれど、深夜の酔っぱらいに較べれば、こんなのはまだ可愛い。赤信号で止まるのが気に入らなくて運転席の背を蹴り続ける男。走ってる最中に窓を開け、いきなりゲロを吐く女。目的地に着いてから「金がない」と言いだす男。警察沙汰もある。

 新宿3丁目の角で乗せたその客は「ゴールデン街で飲んできた」と、聞いてもいないひと言を発してから「寝るからカーナビに住所を入れろ」と命令口調で言い、「荒川区尾お久ぐ〇△×□」と早口で続けた。こっちは慌ててメモを取り、復唱して目的地を確認した。走りだすなり彼は眠りに入り、私はカーナビに住所を入力しながらルームミラーで彼を見た。四〇歳前後だろうか。やっぱり、な、と、ひとり合点した。経験した限りでは、運転手に横柄な態度を取るのはこの年代の男がいちばん多い。

 明治通りをまっすぐ行って30分、目的地に到着すると同時にメーターの支払いボタンを押し、料金は3860円。なんだか嫌な予感がしていた。ナビが「目的地に到着しました」と告げた場所に住宅家屋はなく、町工場だか倉庫だかよくわからなかったけれど、とにかく住宅ではない建物が並んでいたからだ。絶対にここじゃないと思った。着きましたよ、と声をかけても、酔っぱらいは、精根尽き果てたみたいで顎を上げ口を半開きにして眠り込んだまま起きる気配がない。お客さん、お客さん、と3分くらい続けたが反応はなく、仕方なく彼の身体を揺すって起こす。

「奥さんは知らないんだよ」

 えッ、と聞き返したら、うわ言だった。

「お客さんッ」

「大丈夫だってば」

「お客さんッ、起きてください」

「ここはどこだ」

 怪しげな夢から覚めた男は、体を起こしてまわりを見わたし、「ここはどこだ」と言いだした。この言葉は、車内トラブルの幕開けを知らせるブザーだとタクシー運転手はみんな知っている。

「ちゃんと俺の家の前に着けろよ」

「3860円は高い。2800円しか払わないぞ」

「警察で自衛隊でも、呼べるもんなら呼んでみろよ」

 20分ほども続いたすったもんだの末の110番。パトカーが到着したのは、それから10分ほど後のことだった。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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