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いつも鏡を見てる
タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)

前回に続き、大分から上京してタクシー運転手を目指す中年男性の物語です。

43万円が入ったカバンを電車内でなくした男の悲しい現実

いつも鏡を見てる 第16話

白紙の答案 2007年12月5日

 結露で曇った窓ガラスの真ん中を3本の指でキュッキュッとなぞった跡が弧を描き、そのわずかな覗き穴がガラスの向こうの景色を映しだす。まだカーテンのない窓が明るく映っていたのは、道路を挟んで反対側の、省東自動車の車庫を照らす蛍光灯が乳白色の空間を広げているせいだった。屋根付きのガレージには、勤務を終えて帰庫した中央無線カラーの営業車が4~5台止まっている。入り口のすぐ横にある洗車機では黒塗りの営業車が右側後ろのドアを開け、運転手がフロアマットを引っ張りだしていた。ためしに、濃紺の制服を着た自分の姿をそこに置いてみる。ふ~ッ、と、長い溜め息のあと「まいったなぁ」と思いが声になってでた。農閑期ではあるけれど、それでも、つい何日か前まで山に囲まれた峰田の畑で土にまみれていたのだ。農作業をしている自分の姿は浮かんでも、タクシー運転手の自分がどうしてもでてこない。

 いや、本当はそうじゃない。きのうのタクシーセンターでの一件と、帰りの電車内での取り返しのつかない失敗がこたえているんだ。こんな調子で本当にタクシー運転手として働けるようになるのだろうか。富士山のてっぺんから御来光を拝みたいと願ったところで痛みを抱える曲がった腰で富士登山なんて無理な相談だが、もしかすると、そっちの方が地理試験に合格するよりは現実味がありそうな気さえする。枕もとに置いた『地理試験問題例集』に目をやって、また溜め息をつき、考えたくもない今日からの生活を考えると、またまた、ふ~ッ、と溜め息をつき、気づくと、また「まいったなぁ」と声にだしていた。

 目覚まし時計が午前5時を指している。2日前、上板橋駅前のイトーヨーカドーで布団一式を買ったついでに見つけた、小さくて丸い格好をした安物の目覚まし時計である。こんなことになるなら、あのとき、色と柄なんかに迷ってないでカーテンも毛布も買っておけばよかった。10万円をポケットに入れていたのに、テレビは後回しでいいなんて考えたのがいけなかった。「型落ちですから」と作り笑顔の店員が言った4万3000円のシャープの32インチ型は惜しいことをしたといまさらながら思う。

 それよりなにより、いちばんの後悔は2万2300円の石油ファンヒーターを、ためらったあげく買わずに帰ってきてしまったことだ。事務所で借りた石油ストーブは二時間前から反射板を真っ赤に染めている。しばらくはこいつの世話になるしかないだろう。寒さで目が覚めて、部屋の灯を点けたのが午前3時。ゆうべ、寝る前に事務所のテレビで見た天気予報が、明日の最低気温は4度と伝え「12月に入ってからいちばんの冷え込みとなるでしょう」と言っていたのを思いだし、ストーブに火を入れ、買いそびれた石油ファンヒーターをつくづく悔やむのだった。東京について4日目の朝のことである。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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