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43万円が入ったカバンを電車内でなくした男の悲しい現実

妻から送られてきた2万円

 汗をかいた窓ガラスが、ツーッと糸を引くように大粒の涙を流した。指でキュキュッとなぞってできた扇の形が流れた涙で崩れ、できそこないのクラゲの絵みたいになっている。車庫から届く蛍光灯の光が乳白色のクラゲの足をまた1本増やし、5本になった。5時半をまわった車庫には、オレンジ色の回送ランプを点けた営業車が何台も戻ってきている。仕事終りの運転手と、早々に出勤してきた今日が出番の運転手が入り交じっている。この光景を作る一員に、自分も本当になれるのだろうか。ふ~ッ、と、また溜め息がでた。溜め息の数を勘定している時間があるくらいなら地理試験の勉強に取りかかったらどうだ。そんなことは言われなくたってわかっている。

 白紙の答案の件は東京タクシーセンターから連絡が入っていたようで、会社に戻るなり「これで勉強しておけ」と法師部長から渡された資料はどれも東京の地理に関するもので、そこには、例の地理試験問題例集もあった。

「この本を丸暗記すれば合格する」

「一週間で覚えろ」

 部長は命令口調で簡単に言ったけれど、パラパラとめくってみたら、地理試験問題例集は100ページもある本だった。

「わかったか」と念を押され、「はい」と返して、実は、と黒いバッグの件を話した。部長は、地理試験どころじゃないとばかりに、その場ですぐにJRと東京メトロに問い合わせの連絡をしてくれたけれど、「落とし物は届いていない」だった。

「なんで40万円も持ち歩くんだ」

 白紙答案の一件よりずっと強い調子で、法師部長は黒いバッグの紛失を怒った。怒られながらも、心配してくれているのだとはわかっていた。事務所にいた職員たちも、黙ってふたりのやり取りを聞いている。

「5万円だしてやってくれ」

 部長は振り返って事務員に指示し、「無一文じゃ生活ができない」と言って5万円を前借り分として渡してくれたのだった。

 事務所から香織に電話をした。43万円をなくしたと話すと、その日のうちに電信為替で2万円が送られてきた。現金収入を得る手だてなんてないはずの彼女がどうやって工面してくれたのか、それを考えるだけで切なくなった。

 枕もとに置いた地理試験問題例集。これをまるごと一冊暗記すれば地理試験に合格できる。法師部長が言っていたとおり、先輩運転手たちの誰もがそう言った。

「よし、やるか」

 言い聞かせるように声にだした。

 できそこないのクラゲの格好した覗き穴の向こうに車庫の風景が映り、そこに二重露光したように自分の顔が浮かんでいた。きのうはまいったな、と言ってみる。大粒の涙が糸を引いた。

(以下、次回に続く)

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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