よみタイ

いつも鏡を見てる

43万円が入ったカバンを電車内でなくした男の悲しい現実

「お前、子どもじゃないんだぞ」

 藤枝の跡取りとして25年の農業人生は、それなりに満足できるものだったけれど、その間、散々な目にあうことも、それこそ散々あった。そこから逃げだし、心機一転のつもりで飛び込んだタクシー業界である。けれど、タクシー運転手としての一歩をまだ踏みだしてもいないのに、東京に来てたった3日しか経ってないというのに、もう散々な目にあってしまうなんて、陳腐な筋書きのドラマみたいで、まるで現実的じゃないと思う。きのうは散々な一日だった。

 省東自動車のある板橋区が東京の北の外れなら、東京タクシーセンター*1の所在地、江東区南砂は東京の西の外れである。直近の東武東上線、上板橋駅からそこに行くには、どのルートを使うにしても、まず池袋駅にでないといけない。

「お前、子どもじゃないんだぞ」と言いながら、法師部長は真っ白いコピー用紙に南砂町駅までのルートを書き込んでくれた。池袋からJR山手線で2つ目の駅、高田馬場で東京メトロ・東西線に乗り換える。これなら乗り継ぎが簡単だし、1時間半もみておけば東京タクシーセンターに着くはずだと部長は言い、あからさまな不安顔を見てとったのか、もういちど「子どもじゃないんだぞ」と言ったのだった。このとき部長には黙っていたけれど、実は、大分にいた頃から電車に乗った経験がほとんどない。確かな記憶があるのは運転免許証の更新手続きのために大分駅まで乗った1回きりで、あとは覚えていない。だから、地下鉄に乗るのはもちろん初めてだった。「子どもじゃないんだぞ」と言いたいあっちの気持ちはわかるけど、こっちだって「子どもみたいなものなんだよ」と本当は言いたかった。道順を書いてもらった紙を池袋駅で開いて確認し、山手線のホームでまた確認し、高田馬場駅では3度も4度も確認して、やっと乗り込んだ西船橋行きの地下鉄・東西線である。通勤ラッシュにかち合った電車内では黒い合皮のバッグを持った右手が何度も行方不明になって探しだすのに苦労したが、予定どおり8時過ぎには南砂町駅に辿り着いている。けれど、順調は、ここまでだった。

 目指す東京タクシーセンターは、「小さな公園を挟んで駅の出口とは反対側にある」と会社の先輩運転手から聞いている。そっちに向かって歩く同業者らしい制服姿の数人の後に続き、入ってすぐ右側に小さな食堂がある建物の二階が地理試験の会場となる研修所だった。とまどいながらも「地理試験受験申請書」の書き込みを済ませ、受験料2800円を払って受験票をもらったまではよかったが、指示された研修所の教室に入ったところで、えッ?! となった。試験の開始時間は9時のはずだが、教室は、もう半分以上の席が埋まっていた。そのほとんどがタクシー運転手の制服着用で、私服姿で試験会場にいるのは、自分を別にして3~4人だけしかいない。たったそれだけの光景を目にしたところで、みんなと違う、と心細くなった。無駄口を叩いている人もスポーツ新聞を開いている人もいない。誰もが「地理試験問題例集」とかいう本を開き、試験前の最後の復習をしているようなのだ。

 胸がざわつきだす。自分も何かしなければと焦りが湧いてきて、落ち着きを失った。けれど、読むべき資料などなにもなく、ここに持ってきたのは会社で借りた筆記用具だけだった。大分では、2種免許を持ってさえいればすぐにタクシー運転手として働くことができたけれど、東京はそうではないと法師部長からは聞かされていた。2種免許とは別に、東京タクシーセンターが発行する乗務員証が必要で、それを手にするには地理試験に合格しなければならないのだという。「だから地理試験を受けてこい」「落ちたら次回の予約を取ってこい」と、ただそれだけ言われてやってきた東京タクシーセンターだったのだ。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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