よみタイ

いつも鏡を見てる

43万円が入ったカバンを電車内でなくした男の悲しい現実

43万円が入ったバッグがない

 地理試験に打ちのめされても、昼どきになれば腹はへる。センター長の説教から解放され、しょぼくれた足どりで向かった先は一階の食堂だった。カレーライスを食べた。釣り銭を無造作にズボンの右ポケットに突っ込むとジャラジャラした感覚が伝わり、ぜんぶいっぺんに握った右手を広げると小銭で930円あった。帰りの電車賃はこれで足りると思った。それから公園でショートホープを一服し、高田馬場までのキップを買って地下鉄に乗り込んだときまでは確かに右手に黒い合皮のバッグを握っていた記憶がある。けれど、いくら思いだそうとしても、その先がわからない。網棚にバッグを載せた気がするし、載せなかった気もする。あれは地下鉄の車内だったのか、それとも山手線に乗り換えてからだったろうか。

 バッグがないと気づいたのは成増行きの東武東上線の車内でだった。始発駅の池袋から各駅停車で六つ目が、省東自動車のある上板橋駅。中板橋駅で停まった電車がなかなか発車しないのは、この駅で急行通過待ちをするからだった。各停しか停まらない小さな駅なのに、プラットホームがふたつあるのはそのためらしい。池袋をでると高層ビルの姿が少しずつ遠ざかり、駅を三つも過ぎた頃には、その種の建物はもう姿を消していた。中板橋駅に着いた電車が速度を完全に落としたとき、踏切のすぐ向こうに商店街があるとわかった。線路を挟んだ反対街にもコーヒーショップや商店が並ぶ。都心から10分ほど離れただけなのに、ここはもう都会の喧騒とは縁の薄い住宅街だった。停車時間は三分と車内放送が流れ、この駅を発車したら次はときわ台、その次が上板橋駅だと、降りる心づもりでいつものように腰に手を当てたときである。

 はッ、となった。

 持っているはずの黒いバッグがない。そうと気づいた瞬間、まさにその瞬間、こめかみのあたりから、首、背中、膝の順で、痺れるような寒気がざわざわと走った。血の気が引く思いとは、たぶんこのことだろう。座ったシートの後ろに手をまわしたが何もなく、慌てて立ち上がって確認したけれど、シートにも網棚にもバッグはなかった。車窓からの景色のことなど、一瞬のうちにどこかに飛んでいった。

 なくした?

 胸が締めつけられるように息苦しくなった。いつも右手に持っていたのだから落とすはずはない。いつだって肌身離さず持っていたのに、と、立ちあがっても座り込んでも落ち着かない心と身体をどうしていいかわからないまま、電車内での記憶を辿ってみる。南砂町駅から乗った中野行きの東西線はがら空きで、座った場所はドアのすぐ横だった。たぶん、そのとき、バッグは膝の上に置いていたはずだ。でも、それは確かなのか、と問い詰められたら自信はない。高田馬場から乗った山手線の車内は混雑していて、車両のなかほどに立って吊り革を握った。もしかすると、あのとき網棚に載せたのか。しかし、後生大事にしているバッグを自分の手から離すだろうか。そんなことをするはずがない。そうは思うのだけれど、状況からして、電車のなかでの出来事であるのだけは、どうやら間違いなさそうだ。動悸が激しくなっていく。

 東京に逃げだしてくるために3年近くもかけて貯めた50万円だった。飛行機代とホテル代で5万円ほど使い、この三日間でイトーヨーカドーで買った布団一式や日用品の代金が2万円弱、黒いバッグには、残った全財産、なけなしの43万円が入っていた。それをどこかに置き忘れてしまった。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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