よみタイ

いつも鏡を見てる

43万円が入ったカバンを電車内でなくした男の悲しい現実

「なんで東京に出てきちゃったんだろう」

「白紙でだした人間が次回の予約を取るとはどういうことだ」

 センター長と名乗る男は、右の頰をよく見ると「俺は怒っているんだぞ」と書いてありそうな怒りの形相で、そう言った。

 国会議事堂がどこにあるのか知らず、東京タワーがどこにあるのかもわからずに受けた地理試験は、当たり前だが不合格だった。会社で指示されてきたとおり次回の予約の列に並び、順番を待ちながら、何べん受けたところで合格するわけがないと考えていた。館内放送で名前を呼ばれセンターの事務所に入ったのは、手続きを済ませてから5分ほどしてからのことである。

「白紙でだしたというのはキミか」

 顔を合わせるなりセンター長が発した最初のひと言が怒りだす前ふりだとわかって、気持ちだけはさっさと部屋の外に逃げだしていたけれど、身体はその場に立ち尽くし、「はい」と、消え入りそうな声を返していた。

「どういうことだ、これは」

 センター長は、右手に持った白紙の答案用紙を彼の顔の正面に突きだすようにして示し、「これはどういうことなんだ」と強い口調で同じ言葉を繰り返した。

「答えがぜんぜんわからなくて……」

「1問もわからないで白紙で答案用紙をだした人間が、次の予約を取るとはどういうことだと聞いているんだ。次回の試験では答えられるとでも言うのか」

「キミが予約を取るということは、ほかの誰かが予約を取れずに試験を受けられないということなんだよ。それをわかっているのか」

 センター長の話はいちいちもっともで、返す言葉などあるわけもなく、ただ「すみませんでした」を繰り返すしかなかった。

「キミの会社には私から電話をしておくから、地理試験の勉強をして、受かる自信をつけてから出直してきなさい」

 部屋に戻るなり床にぺたんと座り込み、ふ~ッ、と溜め息をついたところで、「まいったなァ」と声にだし、胸のうちでは、なんで東京にでてきちゃったんだろう、と弱気がでた。散々な1日だった。

 働いても働いても農協への借金は増えていく一方で、小泉政権の誕生を境にしてこっち、農協からの無言の「借金返せ」は露骨になっていた。農業を続けようにも身体がいうことをきいてくれないし、どうあがいたところで、もう無理だった。だから農業を捨てたのだ。考え抜いた末に決断した、借金清算のための自己破産だった。香織に責任がおよばぬよう、離婚までして東京でやり直そうと決めたのだ。そうするために、逃げだすための現金を少しずつ貯めたのだ。東京にでてくるしかなかったのだ。けれど、やっぱり「なんで東京に」と弱気がでる。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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