よみタイ

いつも鏡を見てる

43万円が入ったカバンを電車内でなくした男の悲しい現実

40問中32問正解で合格

 東京でタクシー運転手になるには、2種免許のほかに、東京タクシーセンターが実施する地理試験に合格し「地理試験合格証」を手にする必要がある。タクシーの助手席の前にかざしてある乗務員証は、地理試験に合格し乗務員登録を済ませた証なのだ。そして、そこに至るには、大きく分けてふたつの方法がある。一般的なのは、まずタクシー会社に就職し、タクシー未経験者であれば、タクシー業界でいうところの、いわゆる「養成」として2種免許取得から地理試験合格までのいっさいの面倒をみてもらう方法。2種免許を持っている彼のように東京以外でタクシー運転手の経験があるのであれば、地理試験からの面倒をみてもらうことになる。どの会社に入ったとしても、タクシー運転手として営業にでる日まで、たいていは、たとえば1万円とかの日当が保証されていて、彼の場合もそうだった。

 そしてもうひとつは、二種免許を持っている人のうちのごく少数の人が選ぶ方法。個人的に東京タクシーセンターに出向いて地理試験を受け地理試験合格証を持った状態で雇ってくれるタクシー会社を探すのである。タクシーセンターでは、前者を「研修生」、後者を「一般」と区分している。研修生は、同じ会社に所属する何人かがまとまって、しかも制服姿できているからひと目でそれとわかる。対して、一般の受験者は、どこの会社にも所属していない人たちだから制服は着用していない。彼が試験会場となる部屋に入ったときにいた私服姿の3~4人がそれである。

 彼が地理試験を受けた年の受験者は1万5683人いたのだが、そのうちの1万4570人は研修生で、その合格率は、研修生が42.9パーセント、一般は52.1パーセントだった。難関の地理試験。公益財団法人東京タクシーセンターの「地理試験のご案内」は、試験内容について次のように書く。

「東京特定指定地域(東京都特別区、武蔵野市および三鷹市)内の道路および地名、著名な建造物、公園、名所および旧跡ならびに鉄道の駅の所在。その他当該特定指定地域に係わるタクシー事業の業務に必要な地理に関する事項」

 出題されるのは全部で40問。そのうちの8割、32問に正解すれば合格となるが、彼にはただの1問も答えがわからなかった。

 地理試験問題例集に収められた過去問題には、最短経路問題のひとつとして、たとえば次の問いが掲載されている。

 次の『乗車地』から『降車地』までの、最短経路で経由する交差点名を下記解答群のなかから順番に選び、その記号を回答欄に記入しなさい。

 乗車地(御茶ノ水駅・聖橋口)→(1)→(2)→(3)→向丘一丁目→(4)→

(5)→降車地(都立駒込病院)

 解答群(交差点名)

 ア、本郷3丁目 イ、巣鴨1丁目 ウ、駒本小学校前 エ、壱岐坂上

 オ、向丘2丁目 カ、白山下 キ、東大赤門前

 当てずっぽうでも答を書き込みさえすればご愛嬌で5点や10点は取れたかもしれないのに、妙に生真面目なところがある彼は、それすらしないで、ばか正直に何も書かずに初めての地理試験を終えている。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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