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防御反応としての「うつ」──「心の強制終了」が生存に役立つ理由とは?

うつ状態は防御反応であるという仮説

うつ状態についての興味深い仮説として、うつ状態は防御反応(注5)であるという考えがあります。防御反応であるということは、うつ状態になることによって生存率が高まる場合があることを意味します。まずは、この仮説が生まれた背景について説明しましょう。

うつ病は遺伝病ではありません。しかし、双子調査の結果などから、うつ病を含む精神疾患の発症には、環境が影響すると同時に遺伝子も影響することが分かっています(注6)。うつ病そのものは遺伝しないが、うつ病になりやすい体質は遺伝するということです。このように、病気そのものは遺伝しないが、その病気になりやすい体質は遺伝するということは普通にあります。例えば、2型糖尿病そのものは遺伝しませんが、2型糖尿病になりやすい体質(インスリン分泌が低下しやすい、など)はある程度遺伝します。

うつ病に関していえば、 うつ状態になりやすい遺伝子の存在が想定されます。「必ずうつ状態になる遺伝子」が存在するというのではなく、あくまでも「うつ状態になりやすい遺伝子」が存在するということに注意してください。うつ状態になりやすい遺伝子を持っていてもうつ状態を発症しないまま一生を終える人も普通にいます。2型糖尿病の場合も、なりやすい体質(なりやすい遺伝子を持つ)であっても発症しないまま一生を終える人もいます。他の多くの病気も同じです。

すでに述べたように、一生涯にうつ病を発症する人の割合(有病率)は7%です。このことから、うつ状態になりやすい遺伝子の集団中の頻度は小さくないと考えられます。しかし、病気になりやすい遺伝子の頻度が小さくないというのは、考えてみると不思議な状況です。

例えば、重篤な運動機能障害によって生存が難しくなる筋ジストロフィー症は、遺伝子が原因で発症すると考えられていますが、その有病率は十万人あたり20人程度(0.02%)です。筋ジストロフィー症を発症した人はほとんど子どもを残せません。このことから、筋ジストロフィー症を引き起こす遺伝子は、突然変異で新たに生じたとしても自然選択(注7)の働きによって集団中から排除されてしまい、ごくわずかの頻度でしか存在しないと考えられます。

仮にうつ状態になることが個体の生存や繁殖にとって常に悪影響しかないというのであれば、うつ状態になりやすい遺伝子は、筋ジストロフィー症を引き起こす遺伝子と同じように、ごくわずかの頻度でしか存在しないであろうと予測されます。しかし、うつ病の実際の有病率はかなり高いです。この事実から、うつ状態になりやすい遺伝子は生存・繁殖にとって常に悪影響を与えるのではなく、場合によっては良い影響を与えることもあるのではないのかという予測が導かれます。病気と扱われてはいるものの悪いことばかりではないということです。こうして、うつ状態になりやすい遺伝子に対する自然選択の働きという進化の観点(注8)から、うつ状態は一種の防御反応ではないのかという仮説が生まれたわけです。

防御反応について考えるうえで注意すべき点は、防御反応と欠陥とを別のカテゴリーとして区別することです(注9)。病人の欠陥を改善することは、ほとんどの場合はよいことでしょう。肺炎患者の酸素不足を解消することで顔の青白さがなくなることには何の問題もありません。しかし、防御反応をなくすことにはリスクが伴います。例えば、患者に咳をさせないようにすると、異物排除ができずに状態が悪化する可能性があります(注10)。危険を察知すると不安を感じることも防御反応の一種と考えられるでしょう。不安を感じることによって慎重な行動を選択するようになり、危険回避につながるわけです。不安を感じない精神状態の人は、危険回避が難しくなります。

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小松正

こまつ・ただし
1967年北海道生まれ。北海道大学大学院農学研究科農業生物学専攻博士後期課程修了。博士(農学)。日本学術振興会特別研究員、言語交流研究所主任研究員を経て、2004 年に小松研究事務所を開設。大学や企業等と個人契約を結んで研究に従事する独立系研究者(個人事業主) として活動。専門は生態学、進化生物学、データサイエンス。
著書に『いじめは生存戦略だった!? ~進化生物学で読み解く生き物たちの不可解な行動の原理』『情報社会のソーシャルデザイン 情報社会学概論II』『社会はヒトの感情で進化する』などがある。

Twitter @Tadashi_Komatsu

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