2026.8.13
『みいちゃんと山田さん』は、まぎれもなく〈文学〉である──作者が仕掛けた主題から最終回を予測する
前回、山下さん自身が「誤解に満ちた」文章を書かれた経験から学んだことを綴りました。
今回は、『みいちゃんと山田さん』の文学的な主題を、『伊豆の踊子』や『青い花』を補助線にして読み解きます。

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みいちゃんと山田さんの関係性とは一体どのようなものなのか?
『みいちゃんと山田さん』という漫画を、Xの炎上をきっかけに知った。知的な困難を抱えていると思われる女の子「みいちゃん」の不幸を見世物にしていて、倫理的に問題のある作品だ──そんな前評判だけを頼りに、半ば野次馬根性で読んでみた。
読みはじめてすぐ、予想を裏切られて驚いた。炎上を眺めているだけでは想像もつかなかった、文学的としか表現し得ないような主題をもつ作品だったからだ。
誰かについての漫画を描くとは、どういうことなのか──そんな問いに、『みいちゃんと山田さん』は、まさに漫画を描くという行為によって応えようとしている作品だと思った。そしてその問いは、「みいちゃん」と「山田さん」という二人の関係性と切り離せない形で描かれている。タイトルが示す通り『みいちゃんと山田さん』という二人の関係性こそが、まさにこの漫画の主題であるのだ。
それでは、そんな問いと結びついた、みいちゃんと山田さんの関係性とは一体どのようなものなのだろうか。あらすじを追いながら、見てみよう。
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※本稿は『みいちゃんと山田さん』のネタバレ、及び8月16日(日)に配信が予定されている最終話に関する筆者の予想を含みます。ネタバレを知りたくない方、最終話を予備知識なく自分の目で確かめたい方は、ここから先を読まないことを推奨します。

「去年持ってきた花…そのままだ」
「もうあれから何年経ったんだろうね?」
『みいちゃんと山田さん』は、亡くなったみいちゃんの墓を訪れた山田さんのモノローグから始まる。一年前に山田さんが手向けた供花が、枯れたまま放置されている。
その枯れた花を見つめる山田さんの記憶をたどるように、物語は現在から過去へと遡っていく。描かれるのは、みいちゃんと山田さんの出会いから、みいちゃんが何者かに殺されるまでの12か月間である。
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舞台は2012年、新宿・歌舞伎町のキャバクラだ。
当時21歳だった山田さんは、特に人生でやりたいことも見つからず、就活したい会社も見当たらない、絶賛モラトリアム中の大学三年生だった。大学へ行く気にもなれず、自分がなんのために生きているのかもわからない。それでもなぜか、キャバクラにだけは出勤できてしまう。
そんな山田さんの職場に、体験入店の女の子がやってきた。山田さんと同い年で21歳の「みいちゃん」だ。
みいちゃんは山田さんよりはるかに背が低く、やたらと童顔で、とても同い年には見えない。キャバクラなのに源氏名を使わず、本名の「みいちゃん」をそのまま名乗ってしまうほど極端に素直で、嘘や駆け引きができない性格だ。学歴は中卒で、待機時間中に山田さんがドイツの詩人・ノヴァーリスの『青い花』という小説を読んでいるのを見かけたときには、「青い花」という小学1年生レベルの漢字すら読むことができなかった。みいちゃんは見た目だけではなく、頭も性格も、山田さんと同い年とは思えないほどに幼稚なのだ。
そんなみいちゃんは、まったく仕事ができない。お客さんと満足に会話を続けられず、何度もグラスを割ってお酒をこぼしてしまう。たちまち同僚のキャストたちから疎まれ、面と向かって「無能はタンポポでも摘んでなよ」などと暴言まで吐かれてしまう。
ただ一人、山田さんだけが「そんなことないよ!」と、みいちゃんのことを庇う。みいちゃんのことを庇いながら、山田さんは自分の子ども時代のことを思い出す。受験勉強をしても偏差値が上がらず、母親から無能扱いされてきた子ども時代を。そんな子ども時代の自分をみいちゃんに重ねることで、山田さんはみいちゃんのことを庇ったのだ。
山田さんから庇ってもらえて嬉しかったみいちゃんは、自分も本を読めば山田さんと仲良くなれるのではないかと考え、翌日から職場に女性誌を持ってくるようになる。しかしみいちゃんは、一人で本を読むことができない。一悶着あった末に山田さんが、隣に座って読み聞かせをしてあげる。
そんなふうに屈託なく距離を縮めてくるみいちゃんと時間を過ごすうちに、山田さんは少しずつ、自分の過去と向き合いはじめる。
たとえば、仕事中に何度もコップを割ってしまうみいちゃんが、専用のピンク色のプラスチックコップを使うことを店から強制されたときのことだ。落ち込んでいたみいちゃんのために、山田さんがそのコップにみいちゃんの似顔絵を描いてあげると、みいちゃんは心から喜んだ。その姿を見た山田さんは、自分の描いた絵で誰かが喜んでくれることが、自分にとっても喜びなのだと気づく。
そして山田さんは思い出す。自分がもともと、絵を描くことが好きだったこと。子どものころ母親を喜ばせようと思い、母親の好きな花の絵を描いて見せたら、「こんなもの描いてる時間があるなら勉強してほしかった」と、描いた花の絵をゴミ箱に捨てられてしまったことを。
素直なみいちゃんと一緒にいることで、山田さんは、母親に否定されて以来ずっと心の奥に封じ込めてきた自分を、少しずつ取り戻していく。
夏になると、みいちゃんが浴衣を着て花火大会に行きたいと言うので、二人は浴衣姿で夏祭りへ出かける。夜空に打ち上がる花火を眺めながら、みいちゃんから将来の目標を尋ねられた山田さんは、晴れやかな表情で応える。
「親にも誰にも言えてないんだけど 漫画家になるのがずっと夢なの」
「私が描いたものを誰かが読んでくれること 楽しんでくれること」
「それが私の『幸せ』なんだ」
それまで自分が何のために生きているのかわからなかった山田さんが、初めて、自分の生きる目標と幸せを言葉にした瞬間だった。そんな山田さんに、みいちゃんは屈託のない笑顔で言う。
「すごーい!じゃあさ いつかみいちゃんのこと漫画に描いてね!」

見開きの右ページには、初めて自分の夢を語る山田さん。左ページには、その夢を屈託なく応援するみいちゃん。まさに『みいちゃんと山田さん』というタイトルを象徴するかのような、エモーショナルなシーンだ。
それから数日後、山田さんは衝撃の事実を知ることになる。みいちゃんが花火大会のときにはすでにキャバクラを辞めていて、デリヘルで働きはじめたこと。みいちゃんに連絡を送っても、既読すらつかなくなっていた。
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ここまでが、『みいちゃんと山田さん』の前半部分だ。
山田さんはみいちゃんのおかげで、自分のやりたいことや幸せに気づくことができた。とても感動的な関係性である。しかし同時に、なんとも非対称な関係性でもある。
山田さんは大学生で、キャバクラの待機時間中に岩波文庫の『青い花』を読んでいるくらい教養がある人だ。母親との関係にトラウマがあるにせよ、みいちゃんと比較すれば、明らかに社会的強者である。
一方、みいちゃんは中卒で、「青い花」という小学一年生レベルの漢字すら読むことができず、満足に仕事をすることもできない。山田さんは、自分より明らかに社会的弱者であるみいちゃんの屈託のない素直な性格に触れることで、自分の夢と幸せを見いだしたのだ。
これは何も、わざわざ穿った読み方をしているわけではない。山田さんが初めて夢を語った、あのエモーショナルな見開きのシーンが、まさに二人の非対称性をはっきりと描いているのだ。
「それが私の『幸せ』なんだ」──漫画家になりたいという夢を初めて口にすることができた山田さん。背の低いみいちゃんの目線から見上げるように描かれた山田さんの背景には、夜空を明るく染め上げるように、美しい花火が打ち上がっている。
「いつかみいちゃんのこと漫画に描いてね!」──無邪気に屈託なく笑うみいちゃん。背の高い山田さんの目線から見下ろすように描かれたみいちゃんの背景には、薄暗い土に生えた雑草が描かれている。
空と地面。花と雑草。見下ろす者と見上げる者。交差する二人の視線は、あまりにも非対称だ。見開きのシーンでは、夢を語る山田さんが描かれると同時に、みいちゃんと山田さんが決して対等な場所に立っていないことが描かれている。
『みいちゃんと山田さん』は言ってしまえば、相対的に社会的強者側である山田さんが、社会的弱者であるみいちゃんとの出会いによって自己認識を変容させられ、モラトリアムを抜け出し、自らの幸せを見いだす物語なのだ。
モラトリアムと非対称な二人の関係性。どこかで見たことがあると思い、真っ先に思い出したのは、川端康成の『伊豆の踊子』だった。
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『伊豆の踊子』は、川端康成自身の体験を下敷きにした自伝的な小説だ。主人公は、当時屈指のエリート校だった旧制第一高等学校に通う、20歳の学生である。
幼くして家族を失った主人公は、自分の性格が「孤児根性」によって歪んでいると思い込み、強い自己嫌悪を抱えていた。その息苦しさから逃れるように、伊豆へ一人旅に出る。そこで出会うのが、各地を巡業して暮らす旅芸人の一行と、14歳の踊子だった。
旅芸人とは、町や村、温泉場などを巡り、踊りや三味線などの芸を売って暮らす人々である。そんな旅芸人は「河原者」「河原乞食」などと蔑まれた歴史もあり、今風に言えば、社会的弱者側の人間だった。
『伊豆の踊子』を改めて読んで思ったのは、踊子とみいちゃんの描かれ方がよく似ていることだ。踊子は、打算的な駆け引きをせず、思ったことをそのまま口にする性格で、主人公のもとへお茶を運んだ際には、茶碗を落としかけてこぼしてしまう。そしてみいちゃんと同じように、主人公の隣で本を読み聞かせてもらう。
『伊豆の踊子』はそんな踊子のことを、主人公の目を通した美しく無垢な存在として描く。それはどこか『みいちゃんと山田さん』が、みいちゃんのことをポップに可愛らしい存在として描くのに似ている。
私が読みだすと、彼女は私の肩に触る程に顔を寄せて真剣な表情をしながら、眼をきらきら輝かせて一心に私の額をみつめ、瞬き一つしなかった。これは彼女が本を読んで貰う時の癖らしかった。…(中略)…この美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊子の一番美しい持ちものだった。二重瞼の線が言いようなく綺麗だった。それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うと言う言葉が彼女にはほんとうだった。
(川端康成『伊豆の踊子』新潮文庫より引用)
その後主人公は、踊子から自分が「いい人」として受け入れられていることを知り、自分の性格が孤児根性によって歪んでいるという自己認識から、少しずつ解放されていく。そして物語の終わりには、他者からの好意や親切を、疑うことなく自然に受け入れられるようになる。
『伊豆の踊子』は、そんな主人公の心の変化を描いた物語だった。
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『みいちゃんと山田さん』は『伊豆の踊子』と構造がよく似ている。どちらも、モラトリアム期にある社会的強者側である人間が、社会的弱者から素直に肯定されることで、自己認識を変化させていく物語だ。
しかし、決定的に異なるところがある。『伊豆の踊子』が弱者である踊子のことを「花」として描いたのとは対照的に、『みいちゃんと山田さん』は強者の山田さんのほうを「花」として描き、弱者のみいちゃんを「雑草」として描く。
そして、この花と雑草の非対称性が、物語の後半では、より残酷なかたちで描かれることになる。
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