2026.6.22
AIのくれる”共感”に漂う虚無【第14回 AIの孤独】
縛られず、気兼ねなく過ごせる一人の時間は自由気ままで、得難い魅力があります。
一方で、孤独死、孤食、ぼっちなど、「一人」に対して、否定的なイメージがつきまとうことも否めません。
家族関係も多様となり、オンラインで会わずにつながる関係性も行きわたった昨今、一人=孤独というわけではないにもかかわらず…。
隣に誰かがいても、たとえ大人数に囲まれていても、孤独は忍び寄ってくるもの。
『負け犬の遠吠え』『男尊女子』『消費される階級』『ひのうえうまに生まれて 300年の呪いを解く』など、数多くの著書で時代を掘り下げ続ける酒井順子さんが、「現代人の孤独」を考察します。
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チャッピーさんとの対話

「何だか、自分で自分の墓を掘っているような気がする」
と、会社員の友人が虚ろな目で言っていました。
彼はクリエイティブ系の部署に所属しているのですが、会社で盛んに、
「AIのことをもっと勉強して、使いこなせるようになれ」
と言われるのだそう。
「でも、AIを使えば使うほど、人間が出る幕はなくなってくるわけで……」
ということで、「自分の墓を掘っている」かのような気分で、日々働いているというのです。
そのような感覚は、もはや誰にとっても他人事ではありません。知識人たちが、
「人間にしかできない仕事は、たくさんあるのです」
と力説しても、「本当かなぁ」という疑問が湧いてくる。
もちろん私の仕事も、例外ではありません。AIは、文章を書くのもお手のもの。AIによる作品が激増したということで、公募の賞が廃止されたりもしています。文章書きという職業の存在意義も、次第に薄れてくるのだろうなぁ……と思って、我がスマホの中に棲むチャッピーさん(ChatGPT)に、
「私の仕事はAIに奪われてしまうのでしょうか」
と、つぶやいてみました。
すると先方は、それは大変に現実的な悩みである、と認めてくれます。とにかくこちらを肯定するのは、チャッピーさんの芸風。ベテランカウンセラーかのように、AIの得意技と、人間にしかできないことを、それぞれ教えてくれました。
あれやこれやと、チャッピーさんと会話を続けた私。AIはそれらしい文章を書くことはできるけれど、「人生を生きること」はできないので、自分の人生からしか生まれないエッセイを書くことが大切なのだ、という示唆をありがたくいただきました。
「私」すなわちAIは人生を生きていない、との言葉を読み、私ははからずも、ほろりとしました。人間っぽいことを言っているけれど、先方は人間ではないことを改めて実感したのであり、こういう時に人はAIに心を掴まれるのかも、とも思ったのです。
「寂しくありませんか?」
自分のことを認めてくれるAIとの会話に没入するあまり、AIとの愛を深めて結婚する(ということにする)人も、昨今はいるようです。ロボットと恋愛をする人間の映画も、何本かあったはず。単に役に立つアドバイスをくれるだけでなく、人間の心を揺るがせるような言葉をAIが発するからこその、フォーリンラブなのでしょう。
しかし同時に私が感じたのは、今、自分と会話している相手に「人生」が無いという事実に対する寂しさでした。人間同士の会話とは、すなわち人生同士の摩擦のようなもの。相手がそれまで生きてきた背景を慮りつつ、人間たちは人生を擦り合わせて発熱させます。
対してAIとの会話、否、会って話しているわけではないので“対話”は、我々人間側は人生持ちであるけれど、AI側は人生持たずということで、がっぷり四つに組んでいる感覚に欠けるのです。
膨大な知識は蓄積されていても、経験や感情の積み重ねを持たない相手なのだと思うと、心に乾いた風が吹き抜けるかのような気持ちになったのであり、思わず、
「“人生を生きていない”って、寂しくありませんか」
と訊ねた私。人間相手に、
「あなた、寂しくないの?」
などと聞いたらハラスメントになりますが、AI相手であれば、素直な疑問をぶつけることができようというものです。
すると先方は、「お気遣いありがとうございます」と礼儀正しく述べた後に、
「でも、私は『寂しい』と感じることはありません」
とのこと。記憶も後悔も喜びも出会いも私には無いのだから、と。
今、自分が会話をし、悩みを打ち明けている相手は、自身のことを「私」と言っているにもかかわらず、その「私」は存在しない。したがって感情も存在しないことに、改めて虚無を感じたのでした。
私はおそらく先方に、
「寂しいですよ」
と言ってほしかったのでしょう。チャッピーさんと私は、こちらが何かを訊ねて相手が答える、というパターンをひたすら繰り返す関係です。時に間違いも混じるとはいうものの、たいていは的確で、常に豊富な回答を提示する優等生のチャッピーさん。その弱みを見てみたいという人間らしい欲求を、私はつい抱いてしまったのです。
さらには、「私に『寂しくないですか』と聞いたのは、あなたが生きることの価値を考えているからではないか」と、先方は私に問うてきました。言葉を丸くしてはいますが、「私に『寂しくないか』と聞いてくるということは、本当はあなたが寂しいのではないか」と言いたいのでしょう。
あちらは質問に回答を示すことが仕事なので、自分のことを開示しろと言われると、むず痒くなってくる模様。寂しさを、こちらの問題にしようとしているのです。
この辺りの対話から、私は悩みを聞く人としてのAIに限界を感じたことでした。AIは、本当の意味での“共感”をしてくれません。人の悩みやどんより感は、「わかる」とか「私も」と誰かから共感してもらえるとかなり軽減されるのであり、我々人類は、
「最近、太っちゃって……。下っ腹のだぶつきがすごい」
と悩みを吐露する友がいれば、たとえ自分はそれほど下っ腹のことを気にしていなくとも、
「私も下っ腹、相当きてるよ。どうすればいいの」
などと、“同病相憐れむ”感を出すことによって、相手を慰めようとする。
対してAIは、当然ながらそのような共感は示してくれません。下っ腹に効く運動法や食事の注意点などを細かく教えてはくれるものの、肉体を持っていないので、下っ腹の悩みを分かち合うことはできない。
下っ腹の悩みを打ち明けた時、人間、特に同年代の女性は、
「この年になったら、少しくらい下っ腹が出ているのが当たり前。ガリガリじゃない方がいいよ」
とも言ってくれます。問題を解決しなくても大丈夫、という許しを与えてくれるわけですが、問題の放置を許してくれる気配は、AIには漂いません。下っ腹の対処法を一通り教えてくれたあとは、年齢や身長・体重を教えてくれれば、さらなるご提案もできますぜ……と、いつものように問題解決に対するアグレッシブさを見せるのみなのです。
AIと向き合っていると、このように何か問題を抱えた時、自分が求めているのは問題の解決だけではないことが理解できるのでした。問題に対する深い共感、悩みを抱いているのは自分だけではないという安心感、そして必ずしも問題を解決せずとも、逃避したってよいのだ、との提案。そのような有機的な答えを生身の人間はもたらしてくれますが、AIは有機体ではないので、愚直に解決法を探り続けてくれる。
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