2021.12.15
エリート会社員からタクシー運転手に転職した男の大失敗
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)
前回は、2011年3月11日に都内を運転していたタクシー運転手の物語でした。
今回からは、一流企業の部長からタクシードライバーに転身した男のお話です。彼はどのような失敗をしたのでしょうか?
いつも鏡を見てる 第19話
山中修 2012年1月19日
「タクシーの運転手に向いてないよね」
あの男の言葉が脳裏に浮かんだ。
いや、あの男は、そうは言ってない。ただ、「へたくそ」と、見たままを口にしただけだった。けれど、実地研修の初日、走っても走っても客を見つけられずに帰庫し、これから先、本当にタクシー運転手としてやっていけるのかとの不安な思いと闘っていたところに飛んできた「へたくそ」を、山中修の耳が、勝手に「タクシーの運転手に向いてないよ」と変換してしまっていたのだった。
とんでもない失敗
右折すれば「犬吠埼」と記された道路標識を何キロか手前で通りすぎ、住宅街を抜けた県道の左右は真っ暗闇で、おそらく田畑が広がっているのだろうとは想像がついた。道案内のカーナビが右折を指示したのは、その暗闇の先である。
曲がったとたん道はいきなり狭くなり、クルマ一台がやっと通れる程度の路地に変わった。画面に50メートルほど先の踏み切りが映り、真横にあるのが目的のキミガハマエキだと表示していた。遮断機こそあるものの、踏み切りといっても狭い路地を幅1メートルほどの単線の軌道敷が横切っているだけで、そこを通過すると道はすぐに左に折れ、ガイドが終わった。タクシー運転手に転職して日の浅い山中修が、カーナビの案内を頼りに銚子電鉄の君ヶ浜駅前に辿り着いたのは、すでに日付が3月4日に変わった午前3時ちょうどのことである。
ヘッドライトを消したとたん、周囲の真っ暗闇のなかにメーターパネルの灯と料金メーターが表示する尋常じゃないタクシー代〈40170円〉が鮮やかに浮かび上がる。思いのほかの暗さにびっくりし、あわててヘッドライトのスイッチを一段まわすと、圧倒的な力が暗闇を瞬時に押しだした。グラスいっぱいの水に一滴だけ垂らしたオレンジ果汁がつくりだした色のなかに映しだされたのは、トタン張りの、畳の大きさにたとえるなら二畳ほどの屋根に覆われたCoca-Colaのロゴが縦書きの赤い自動販売機と背もたれにヒゲタ醬油のロゴが入ったベンチ、その間に挟まれるようにして置いてある犬小屋のような箱だった。それが犬小屋でないのはすぐにわかった。なかの方がごそごそと動いたと思ったら現れて大あくびをしたのは図体のでかい茶トラの猫で、突然のヘッドライトで目が覚めちまったじゃないか、みたいな顔をこっちに向けた。〝ねこ駅長〟を連想した。
路地の右手にはコンクリートの塀があり、どうやら民家らしいが、あたりは真っ暗で、本当にそうなのかはわからない。この狭い道をあと200メートルも進めば松林に至り、そこを抜けた先が鹿島灘の君ヶ浜で、浜に沿って通るのは県道254号線だとカーナビが示している。ためしに縮尺を〈拡大〉にしてみると、いま、自分がいる場所を俯瞰で見る格好になり、関東平野の東の端、九十九里浜と鹿島灘が交わる頂点、銚子の外れの犬吠埼のすぐ横に現在地を示す赤い三角印が表示された。
どう考えたっておかしい。
「本当にここでいいんだろうか」
「見当違いの場所にきてしまったのかもしれない」
小さな不安がよぎったとたん、初対面の自分に「タクシーの運転手に向いてないよ」と、洗車しながらぶっきらぼうに言った先輩運転手の言葉が、どうしたわけだか何度も何度も脳裏に浮かんできた。暗闇のなかで、不安が膨らんでいく。
丸の内からずっと眠ったままだった乗客がいつの間にやら目を覚ましていた。何も見えない窓の外を黙って凝視し、こんどは首をひねるようにして、リアウインドウの、やはり何も見えない向こうに視線を向け、そして向き直ると、どうなってるんだ、みたいな顔をしてすっとんきょうな声を上げた。
「ここ、どこッ?!」
「タクシーの運転手に向いてないよ」
先輩運転手の言葉が、また浮かんだ。
乗客がしきりに何か言っている。
「運転手さん、ここ、いったいどこなの」
「ケミガワハマの駅前までって、俺、ちゃんと言ったよね」
タクシー運転手として働きだしてまだ2か月しか経たない山中修の、50歳の誕生日を前にした日の出来事だった。