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エリート会社員からタクシー運転手に転職した男の大失敗

難関の地理試験も一発合格

 古参の連中はやっかみ半分で「豊田軍団」と揶揄していたが、北光自動車交通のなかに、豊田康則を中心にした七~八人の運転手からなる勢力ができていたのは事実だった。

 フジテレビ通いに見切りをつけた豊田は隔勤からナイトに働き方を変え、深夜の仕事場をもっぱら銀座に移してからというもの、どんな知恵を働かせた結果か断じて黙したままだが、水揚げをぐんと伸ばしていた。出番のたびに五万も六万も、隔勤と変わらない売り上げを持って帰ってくる。エース格にのしあがった彼は、三代目の覚えもめでたく、それまでは古参の海千や山千が担当していた新人指導係を任されるようになっていたのだった。

 指導する相手の新人は、多くは他業種からの転身組であり、2種免許の取得から地理試験合格まで会社がいっさいの面倒をみる、いわゆる養成の新入社員である。彼らが、2種免許を取り、地理試験に合格し、東京タクシーセンターが発行する運転者証を手にして、今日からでも営業にでられるという状態になった時点で初めて実施するのが北光でのこれまでの新人指導だった。指導係が助手席に同乗し、実際に営業にでる。鉄道駅によっては客待ちのタクシープールがあって、そこでのルールは教えられなければわからない。一獲千金狙いの空車が押し寄せる夜の銀座の中心部では、一定時間内は定められた乗り場からしか客を積めない罰則付きの厳格なルールがあって、それこそ教えられなければわからない。いくつもあるその種の決まりごとを除けば、先達による指導を受けずとも営業は可能だし、実際、リッチネット東京で働きだしたときの私は、東京でタクシー運転手として働いた経験はなかったにもかかわらず、ただの一度として同乗指導を受けないまま営業にでたものだった。けれど、「未経験者歓迎」を謳う近ごろのタクシー会社の大多数は、新人運転手を大事に扱ってくれるから、いきなり「稼いでこい」と現場に放りだしたりはしない。養成期間中はもちろん、入社から三か月間とか半年間とかは、営業成績にかかわらず月給30万円を保証してくれるのもその一環だけれど、客を探しやすい道の選び方ばかりか、客を見つけたときの路肩への寄せ具合といった、何乗務か経験すれば身につきそうなことまで、新人指導係が同乗して教えてくれるのだ。

 これを一般的な新人指導の中身とすれば、豊田によるそれは、まちがいなく特異な部類に入る。かつて地域の担い手として頼られる存在であろうとした彼の性分はここでも健在で、ひとり立ちして営業にでるようになっても、豊田は、新人をずっと気にかける指導係だった。深夜の休憩時間を彼らに合わせ、自分が指導した運転手の何人かと待ち合わせてラーメン屋に誘うのはいつものことだし、乗務が終われば彼らの日報に目を通し仕事ぶりをチェックしてアドバイスするのも常だった。新人連中に集合をかけ、定期的に食事会もやっている。そうした日々の積み重ねで、豊田の指導を受けた運転手たちが行動を共にすることが多くなるのは当たり前の流れだった。そして言われるようになった「豊田軍団」であり、そこに新たに加わったのが、年が明ける前に2種免許を取得し、難関の地理試験にも1回で合格していた山中修だった。

(以下、次回に続く)

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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