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いつも鏡を見てる

一流企業のマーケティング部長がタクシー運転手に転職した本当の理由とは?

タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)

前回に続き、一流企業の部長からタクシードライバーに転身した男の物語です。

いつも鏡を見てる 第20話

息苦しいほどの緊張

 初乗務に緊張しなかったタクシー運転手が、もしいるとすれば、その人はよほどの鈍感か、あるいは、おそろしいほどの自信家に違いない。出庫直後から高まる胸の鼓動は走行距離が伸びるにつれて強くなり、息苦しさの正体がドックンドックンだと信号待ちの停車で気づいたとたん、こんどは焦りの気持ちが襲ってきて、鼓動が極限に達してしまうような感覚を知ることになる。山中修も、この日、同じ経験をした。出庫して300メートルも走らないうちに最初の信号待ちで止まったのは、向こう角に五階建てのイオン板橋ショッピングセンターがでんと構える東武練馬駅前の交差点だった。停止線のすぐ手前でクルマを止めたとき、律儀に10時10分の位置でハンドルを握った両手に、めいっぱい力が入っているのに気がついた。右手の人差し指の先が小刻みに震えている。ハンドルから離した両手は、汗でひどく湿っていた。なんでこんなに緊張しているんだ。緊張する必要なんてないんだ。自分に言い聞かせるように念じたが、いくらそうしてみたところでドックンドックンは治まりそうにないと山中は感じていた。指導係が同乗しての実地研修ではあるにしても、山中が、タクシー運転手として初めて営業にでた日である。出庫したのは午前10時40分。鉄道駅を目指す通勤者の姿はもちろんなく、病院通いの高齢者の姿さえもとっくに路肩や歩道から消えてなくなった時間帯だった。タクシー待ちをしている人の姿を見ないまま、川越街道を池袋に向かって進んだ。環七(環状7号線)との立体交差、板橋中央陸橋を抜けると交通混雑は消え去り、ずっと先まで視界が広がったけれど、空車のタクシーを待つ人の姿はそこになかった。

 助手席の豊田が「ほら」と前方を指さしたのは、山手通りと交差する熊野町の交差点で信号待ちの停止中である。交差点の向こうにドン・キホーテ北池袋店があって、そこでの買い物帰りなのだと両手に提げた大きなレジ袋が語る女が立っていた。

「客だけどな、でも、あっちに空車がいる」

 豊田が顎をしゃくるようにして示したのは、交差道路の右折ラインで、右折信号の青がでるのを待っている空車の黒塗りだった。このとき、出庫してからここに至るまでに豊田が見せた一連の行動や言葉から山中が感じ取ったのは、タクシー運転手には、一般のドライバーとは違う視線移動があるらしいということだった。それと同時に思うのは、タクシー客の少なさである。走りだしてから40分も経っているのに、ひとりの客も乗せられないどころか、やってくる空車を待つ人の姿を見ることもなかった。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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