よみタイ

いつも鏡を見てる

3.11のあの日、パニックになった都内を走らせたタクシー運転手の苦悩

〈よき時代〉は終わった

 仕事にでるたびに、俺はタクシー運転手としての才能がない、と、つくづく思う。タクシー運転手には向いていない。

 どの無線グループにも、もちろん4社のグループにも属していない、要は、無線も看板もない無名の小さなタクシー会社、リッチネット東京で働いたときでさえ月の水揚げは70万円を大きく超えていた。それなのに、北光でのこの3か月は、平均してみれば日車営収(この時期の日車営収は3万9400円)よりは多いけれど、それでも4万5000円ほどしか稼げず、月の水揚げは60万円にも届いていない。リーマンショックをもろに受け世の不況感が深まったせいはもちろんある。しかし、そうとばかりも言えないのは、ほぼ同時期に入社した男が出番ごとに確実に7万円を、ときには8万も9万も持って帰ってきて、早々に北光のエース格になっていたからだった。

 3か月前に初乗務した日、10時に出庫し、最初の客を乗せたのは10時40分で、最後の客を乗せたのが翌朝4時20分、帰庫した時間は午前五時ちょうどだった。営業回数は24回、水揚げは4万2420円(税込み)である。初乗務だし、小手調べだし、初日の稼ぎはこんなものだろうと納得ずくの4万2420円だが、驚いたのは実車率の低さである。都内を263キロも走って、客を乗せていたのはそのうちの93キロ、実車率は35.4パーセントでしかなかったのだ。昔の話をしても仕方がないが、かつての〝よき時代〟には、吞気に流していても55パーセントを軽く超えていた実車率。リッチネット東京で働いたときのそれは平均で42パーセント前後。状況はどんどん厳しくなっている。それでも、何度か乗務するうちに、35パーセントならまだマシだとわかってきた。330キロも走って税込み4万270円しか水揚げできなかった日の実車率は、わずか28パーセント。この数字から読み取れるのは、走っても走っても客を見つけられず、泣きたくなるくらい焦ったけれど我慢して諦めずに走ってきました、である。

 初乗り運賃がまだ650円だった15年前(1995年)、この年の日車営収は約5万8000円。1か月間の乗務数を12日で計算すると、決められた勤務時間を怠けずに仕事していれば、誰でも彼でも月に70万円(69万6000円)を確実に水揚げできたという意味で、その気になれば90万でも100万でも揚げるのは難しくなかった。運転手募集の広告にあった「月収45万円以上」は、当時は少しも大袈裟ではない数字だったのである。それなのに、いまの日車営収は4万円にも届かないところまで落ち込んでしまっている。それでなくとも移動手段の多様化と充実でタクシー利用者は減り続けてきたのに、小泉政権時代に実施された規制緩和の影響が大きかった。タクシー会社の数が増え、タクシーの台数もぐんと増えた。そこにもってきて決定的だったのがサブプライムローン問題、リーマンショック。減った客。増えたタクシー。日車営収の激減は当然の結果だった。けれど、こんな厳しい状況にあっても、やるやつはやる、のである。

 出番のたびに七万も八万も確実に稼いでくる運転手には特殊能力があって、鰻重なら松竹梅の松の、さらに上の特上の松。どこの会社にも数人はいる(=数人しかいない)天賦の才能の持ち主である。タクシー運転手という仕事が天職としか思えない努力する異能者である彼らは別として、努力するふつうの運転手、松、竹の話である。平均すれば出番ごとの水揚げが私より確実に1万円は多い松や竹の運転手たちはたくさんいる。私だって、その気になれば彼らのように5万5000円くらいの水揚げはできないわけではない。事実、6万も7万も稼いだ日もあるのだけれど、しかし、続かないのである。松や竹の運転手たちのように、1か月間を通して5万5000円の水揚げをコンスタントに持続することができないのである。根気が、まるでない。それが最大の理由だった。そこそこ稼げるタクシー運転手になるために必要な才能は努力を続ける根気だが、残念なことに、私には、その資質がない。だから私は、竹には微妙に届かない運転手でしかないのである。

 身に沁みる〝才能のなさ〟と酔っぱらい相手にほとほと嫌気が差した。私が隔勤を降りたのは、それが理由だった。北光自動車交通に入社して4か月後(2011年3月)、私は、朝から夕方まで、月に24~25乗務する日勤の運転手に変わり、新しい相番になったナイトの運転手は工場長だった。彼は自動車整備士ではないのだが、ナイトの運転手をしながら営業車の管理を一手に引き受けているところから、もっぱら「工場長」と運転手たちからは呼ばれている。若い時分に北光の運転手としてタクシー業界に入った彼は、それから17年後、2004年に念願だった個人タクシー運転手として独立し、霞が関を舞台に、特定の役人を客とする「居酒屋タクシー」で稼いでいた。けれど、彼の個人タクシー事業者としての営業はわずか三年で終わっている。「話せば長い」と言った彼の物語を要約すると、個人タクシーの資格試験に合格してから免許交付までの期間に犯してしまった54キロオーバーの速度違反が原因で、個人タクシー免許の更新が認められず、そして古巣に舞い戻っていたのだった。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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