2026.8.5
トガッていたらダメなのか?【新人賞コンプレックス 第4回】
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「受賞か一次落ちのどっちかや!」は本当か?
長々と私がただ好きなだけのバラエティ番組の話をしてしまったが、以上の話はもちろん新人賞にも大いに関係がある。
その象徴的なものが新人賞多浪界隈で死ぬほど擦られ倒したあるある──「この小説は受賞か一次落ちのどっちかや!」である。
この言葉は新人賞応募直後の作家志望グループ内で互いの作品を褒め合うときに使われる際に飛び出すクリシェだ。背景をもう少し細かく説明すると、この連載で何度か説明した通り、多くの新人賞は下読みや編集者による数回予備選考を行った末、人気作家ら数名による最終選考が実施され、受賞作が決定される。予備選考と最終選考は選者の属性・発言権・ミッションが異なるため、「予備選考は通りやすいが受賞しにくい作品」や「予備選考は通りにくいが受賞しそうな作品」というのがあるとされている。言い換えると、前者は「小説としての体裁は整っているが個性がない作品」で後者は「あまりにも個性的で評価が難しい作品」であり、「受賞か一次落ちのどっちかや!」という言葉を日本語に翻訳すると、「お前の小説は最高にトガッた最高にイケてるナウいヤングのソレでBIG LOVE」といったところだろう。とにかく、「受賞か一次落ちのどっちか」は新人賞応募者にとって最高の褒め言葉であると思って欲しい。
ただ、ここに大きな疑問がある。
本当に「一次落ちか受賞か」みたいなことは本当に起こり得るのだろうか?
ここでひとつ、私の投稿時代のエピソードをひとつ聞いてもらいたい。
25歳か26歳ぐらいのとき、私は構造的に複雑な技巧を用いた小説の構想をしていた。何度書いてもしっくりこず、じっくり読み直してその原因をだいたい特定できた私は、技術的な調整のために比較的短い小説を書いて某大手新人賞に応募した。時間がなかったのもあり、話もギミックも特に凝ったことはせず、自分としては「ほぼ何もしていない小説」だったが、これが応募数約1600作の15作くらいまで残った。三次選考通過で、雑誌には自分の筆名の上に〇がついていた。
私は驚き、このとき芥川賞の受賞から大江健三郎との対談まではっきりイメージできたのは本連載の第1回で述べた通りである。そしてなにより、自分としては「何もしていない」に等しい小説でこの結果なので、本チャンのガチ小説の方の受賞が確定したようなものだった。
ウイニングラン──それはバンクーバーオリンピック男子ハーフパイプ決勝、ショーン・ホワイトの2本目(ダブルマックツイスト1260)を思わせるものだった──のような心地で私は本チャンの小説を書き上げ、軽やかな足取りで神戸中央郵便局で一切の無駄のない鮮やかな投函をキメて、それから数ヶ月間は受賞の言葉の最適な句読点の打ち方を考えて過ごしていた。そして数ヶ月後、その新人賞を主催する文芸誌の中間発表で私は自分の名前を見つけることができなかった。
受賞を確信した小説が一次選考で落ちる──この衝撃的な事件の顛末を、私は親しい友人であり、のちに芥川賞をマジで受賞することになる作家志望の友人・ミシマに報告した。ミシマにはその小説を応募前に読んでもらっていて、彼もまた私の一次落ちという結果を信じられなかったようで、「他の賞にも送ろう。タイトルだけ変えてサ」と助言してくれた。私はその後2回、その小説を別の新人賞に応募したが、すべて一次落ちに終わった。以降、仲間内でその小説は「びんちゃんのアレ」という、ほぼ男性器的な扱いを受けることになってしまった。私はミシマのせいで二度も余計にポロンしたのである。
問題は私の「渾身のトガッた小説」のクオリティだろう。あれから10数年経ったいま、私自身が読み返すといろんなところが上手くいっていないと感じるし、もし自分が新人賞の下読みなら一次選考で落とすこともじゅうぶんにあり得る。一方、新人賞の選考委員を務めるまでに出世したミシマは、今でも「びんちゃんのアレ」を「2010年代に書かれた国内小説の中でも重要な作品」と評価してくれているようである。
この事実はつまり──当事者バイアスがヤバすぎるので参考にはならないが──「下読み(私)はナシだが、選考委員(ミシマ)は推す」ということは起こり得るということを意味しているとも言えよう。
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「トガり」と「丸さ」の両方が大事
「びんちゃんのアレ」事件から10数年たち、私は当時に比べ随分と丸くなったと感じている。私はまだまだ「売れた」といえるような立場ではない弱小作家ではあるが、いわゆる「世に出る」ことになるにつれ、かつてのようなトガりはかなりなくなった。たとえば抽象度の高い小説は比較的少なくなったし、気に入らない作家の気に入らない小説をSNSでぶん殴ったりしなくなったし、某直木賞作家から受けた「メタフィクションは麻薬だからその依存から抜け出しなさい」との忠告はしっかり守っている。
お笑い芸人で言えばM-1グランプリ決勝で「お医者さんごっこ」のネタを披露した千鳥が典型になるのだが、「昔はトガッていたけれど世に出ていくプロセスで丸くなった」という話はよく聞く。そして今回の序盤でも挙げた野田クリスタルもまたそのひとりだ。
先日放送された『アメトーーク!』の「意外と40歳いってる芸人」で野田クリスタルは「テレビに出てすぐの頃はトガッていたが、歳をとって視野が広くなってくると、いろんなひとのためにもトガッている場合じゃなくなってくる」というようなことを言っていた。
私も今年で40歳になるが、これにははっきりと共感する。
テレビ番組は演者だけでなく裏方のひとや資金提供してくれるスポンサーがいて……など、いろんなひとのいろんな仕事があってひとつの表現が発表できているのと同様、出版もまた作家の発想や筆力だけで成り立っているわけじゃない。伴走してくれる編集者、素敵な本づくりをしてくれるデザイナー、著書を流通に乗せてくれる営業や取次、売ってくれる書店……などがあるわけで、それを思うと、トガッていた頃に持っていた「読者にウケるわかりやすい小説はダサい」みたいな発想は自然となくなっていくし、「売れなくてもいい」なんて思わなくなる。
ただ、もちろん自分がこれまでの表現活動で培ってきたものがあり、できること・できないこと、古くからの読者が自分に期待していることなどもあり、過去の「トガり」のすべてをなくすことはできないし、なくすべきでもない。
たとえ「丸く」なったとしても、その地点まで自分を連れてきたのは若い頃の「トガり」だったのは間違いないし、それは他人に決して似ていない自分だけのものだからだ。自分のありかたを受け入れ、周囲のひととこれからも長くやっていきたい──私はそうやって自分の不要なトガりを丹念に落としていき、こうなれば行くとこまで行ってやろうと己をボーリングの球みたいにピッカピカのまん丸に磨きまくって、地球上の人類全員に「おもしろい!」と言わせるべく、表現世界の恒久平和の祈りを込めて渾身のエンタメ小説を刊行した──
結果、「トガりすぎてヤバい」というレビューが並んだ。
次回連載第5回は9/2(水)公開予定です。
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