2026.8.5
トガッていたらダメなのか?【新人賞コンプレックス 第4回】
小説家としてデビューするまで「8浪」かかったという大滝さんは、現在でも「新人賞コンプレックス」を抱えているそうです。
そんな大滝さんが、強烈な「新人賞コンプレックス」を抱えた人間たちを描く、前代未聞のエッセイです。
前回、デビューしてもまだ新人賞に応募する男・リューノスケを紹介しました。
今回は、作家志望者の「トガり」がテーマです!

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デビューしてもう何年も経つのにまだ新人賞の話ばかりしている恥ずかしい作家がいる。私である。
日頃、テレビをほとんど観ない私ではあるが、例外的にTVerで見逃し配信をチェックしているのが『アメトーーク!』と『しくじり先生 俺みたいになるな!』と『あちこちオードリー』である。というのも、私は「売れている芸人の売れていないときの話」にとにかく目がなく、気に入った回があれば仕事中に無限に繰り返し再生し、ひとり涙ぐんだりしているくらいである。
さて、勘の良い読者ならもうピンときているのではないだろうか? 私のいわゆる下積み時代のエピソードへの過剰な共感はもちろん、「新人賞コンプレックス」によるものだ。そう断言してしまっていいだろう。ここには「お笑い」や「小説」を超え、「表現者」としての共通点が多数ある。
まだブレイク前の、インディーズライブを中心に活動している芸人を「地下芸人」と呼ぶことがある。
先にあげた番組はまさに現在テレビで活躍している芸人の「地下芸人時代」のエピソードトークが頻出するのだが、私が読者各位にとりわけ注目してもらいたいのが、マヂカルラブリー・野田クリスタルのエピソードだ。彼は高校生で芸人としてのキャリアを歩み出し、学校の同級生を「素人」だとし、ヤバいくらいイキリまくって友達がいなくなったという。ダウンタウンに憧れていた彼は「松本人志(存命)の生まれ変わり」を自称し、イキっているだけでなく芸風もトガりまくっていて、「客にウケたらおもしろくない」とまで思っていた。
そのときの代表作が「くだらない夜の始まり」というピンネタである。どんなネタかは各自勝手に探していただきたいのだが、とにかく独創的で、万人ウケというものを完全に捨てているのが一目でわかるはずだ。ひとによっては何がおもしろいのかわからないし、気持ち悪いとさえ感じるひともいるだろう。
しかし、後の相方となる村上や、まだ結成前だったアルコ&ピースをはじめとする芸人たちのあいだで、野田クリスタルは「天才」として一目置かれていた。なかでも現アルコ&ピースの酒井は野田クリスタルにコンビ結成の話を持ちかけられたが、「自分のことを松本人志だと思っていたが、野田はもっと松本人志で怖かった」という理由で誘いを断っている。
将来売れる/売れないの話は置いといて、「売れていない芸人が仲間の売れていない芸人を〝天才〟と称賛する」という現象は何もお笑い界隈だけじゃない。
小説界隈でもこれはフツーにあって、私は「新人賞の予選すらろくに通らないアマチュア作家」時代に、仲の良い「新人賞の予選すらろくに通らないアマチュア作家」を〝天才〟だと所構わず言いまくっていた時代がある。そしてそんな〝天才〟である我々が新人賞を受賞できないのはこの世の中が狂っているせいだとわりと本気で思っていたし、新人賞の「下読み」には小説ひとつまともに読めない無能しかいないと思っていたし、むしろ「新人賞で一次落ちする方が文学として正解」「読者ウケはダサい」とまで思っていた。振り返るとゾッとするが、絶対にデビューできない奴の拗らせ方をコンプリートしている。
というわけで、今回は趣向を少し変えて、作家志望者の「トガり」について実体験を振り返りながら考えていきたい。
「トガり」とは何か?
そもそも「トガり」とはなんだろうか? 現代人らしく、私のスマホに宿る魔人・チャッピーさんに聞いてみたところ、次のような回答を得た。
「例えば芸人なら、周りがやらないような挑発的なネタや独特の切り口で笑わせること、小説家ならタブーに踏み込んだテーマや個性的な文体で読者を揺さぶることかな。ひとをハッとさせたり、考えさせたりするような要素だね。〝トガる〟の本来の意味から考えると、周囲から飛び出して目に見えるくらい際立っている状態。そして尖れば尖るほど先は細く鋭くなるから、狭く深い共感になると思うよ」
なかなか納得度の高い見解である。しかし、お笑いや小説のみならず、音楽や演劇など表現活動一般では、「トガり」は冷笑的に語られがちである。
身近な例を出してみよう。中学や高校でこんな経験はなかっただろうか?
あなたは音楽が好きで、もともとはみんなも好きなJ-POPを中心に聴いていたけれど、興味の幅が広がっていき、今ではクラスでは流行っていない洋楽を中心に聴いている。そこへクラスメイトがあなたに「好きな音楽」の話題を振ってくる。あなたは意気揚々と話す。もちろん洋楽だ。するとクラスメイトは微妙な表情であなたに言う──「なんかトガッてるね」。
自分の意思に関わらず、「ひとと違うこと」は「空気を読めない」として咎められる原因にもなる。集団生活では「自分が周りから浮いていない」ことが自分や相手の快適を支えていて、だからこそ、みんながみんなを個性的にならないように相互監視するような環境が勝手にできあがる。あいつはイタいとか、厨二病とかの牽制は、所属集団とそこに属する自身の快適を維持するために行われている。「出る杭は打たれる」というやつだ。自分が属する環境を変えたくないがために、浮いた奴を叩く。
生活において変化はダルく、できればやりたくない。だから「みんなで現状維持」を無意識的に選んでしまうのかもしれない。
トガりの構造を暴き出す「30点のお笑い理論」
トガると目立つ──これは疑いようのない事実だ。
目立つこと自体、良し悪し両方を備えてはいるけれど、周囲との調和を重んじる環境ではどうしても冷笑やイジりの対象となってしまいがちである。
我々は自分たちが思っている以上に変化を望んでない。
仕事の書類のペーパーレス化が進んでいる昨今でもまだFAXを駆使するひとがいるように、一度染みついた習慣を改めるのには苦痛を伴う。多少不便でも、頭を使わず手癖で済ませてしまえる方が快適だ。私の父親は人差し指タイピングを駆使して淡路島の山奥で自営業をしているが、「トガり」とはそんな田舎の個人商店のおっちゃんにDX化を迫るようなものである。今の比喩は芯を外しまくっているだろうが、私は「トガり芸」が受け入れられにくい原因はそんな感じだからだと考えている。
ではなぜ芸人や小説家──つまり「表現者」は自ら進んでトガるのだろうか?
私が知る限りではあるが、表現者は「これはおもしろいはずだ」という確信があり、その「おもしろい」を証明するために表現を他人に披露する。なお、「自分で作って誰にも見せない」タイプの表現者についてはここでは立ち入らない。
「おもしろい」にもいろいろあって、ざっくり分けると「広さ」と「深さ」の2軸がある。「広さ」とはターゲット層の人数の多さで、「深さ」とは刺さり方だと思えばイメージしやすいはずだ。そして代表的なのは「広く浅く」か「狭く深く」であり、「広さ」と「深さ」は完全に相反しているわけではないが、ある程度トレードオフであるとも考えられる。
ハライチの岩井は『ゴッドタン』内の企画「腐り芸人セラピー」で、「30点のお笑い理論」を披露した。これは「テレビで求められるお笑いは80点や100点ばかりではなく、30点でじゅうぶんなときもある。そしてこの30点のお笑いを100点の笑いだと思ってやりきれる芸人が売れる」という彼の持論であり、ここに芸人(表現者)のジレンマが垣間見れるのが興味深い。
表現者は「自分の〝おもしろい〟を体現する」ことが最も大きな動機だったはずだが、「30点のお笑い理論」ではその理想を捨てることが「売れ」という正解となる状況を指摘している。「表現の実現」と「売れ」はまったく異なる事象ではあり、表現第一主義的な思想からすれば、理想の表現を捨てて「売れ」をとりにいくのは「ダサい」。
この状況下で「ダサい」を拒否するために、表現者は「トガり」を選ぶ。
しかしである。
よくよく考えてみれば、「30点のお笑い理論」で「トガり」を選んでしまうのは、自分の「理想のお笑い」に安住しようとする惰性からではないだろうか?
表現は環境や自分のスキル、考え方に従って常に変わり続けるものである。しかし、「表現者としての生活」に慣れてしまうと、それを支える「理想の表現」の更新がダルくなってしまう。「30点のお笑い」を「ダサい」と拒否するのは一見して「トガり」ではあるけれど、自分が安心できる環境からの変化を拒み、変化の要素となりうるものを冷笑するという、「トガり」とは真逆の行為なのである。
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