2026.7.16
吉本ばななのnote炎上から考える、対話しきれなかった関係性と、それでも突き進まざるを得ない人生
それでも前に突き進まざるを得ないのが人生なのだ
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バーテンをしながら書いた私小説が出版されてから、本の感想を確認するために定期的にエゴサーチをすることにしていた。するとある日、あきらかに僕について書かれたエッセイを見つけてしまった。プロフィールを見ると見覚えのある顔で、何度か店に来てくれていた女性だった。そしてエッセイには、こんなことが書かれていた。
私はゴールデン街のとある店で働く男に惹かれていた。何年も前から彼の文章を読んでいて、会いたくて何度か店へ通った。でも、彼とまともに話すことはできなかった。彼は常連の風俗嬢の女とよく楽しそうに話していて、私はその会話に入ることができなかった。
当時の私はまだ処女だった。彼が私のことを相手にしなかったのは、その未熟さを見抜かれているからだと思った。
その後、私もセックスを経験して気づいた。私が本当に求めていたのはセックスなんかではなく、誰かに自分の物語を書いても
らうことだった。でも、そんな人は現れなかった。だから私は、自分で自分の物語を書くことにしたのだ。
他人から見た自分について書かれた文章を読んだのは初めてのことだった。読んでみて真っ先に思ったのは、これはあまりに誤解に満ちている、ということだった。
彼は風俗嬢が好きだから私は相手にされなかった——このエッセイが書かれた大きな理由のひとつになっているであろうその前提が、僕から見ればまったくの誤解だった。たしかに飲みに来てくれたその女性と積極的に関わろうとしなかった自覚はあるのだけど、それは一見さんも飲みにくるバーで「ファンと作家」という関係で会ってしまうと会話をすることが難しいから、なるべく相手にしない接客方針にしていただけだった。たしかに常連のお客さんのなかに風俗嬢の人はいたけれど、それはその人が職業柄か、どんな人とも屈託なく会話をしてくれる人だったから好意的に接していただけで、風俗嬢であるかどうかが関心の中心を占めていたわけではなかった。
自分について書かれた文章を読むと、誤解がわかりやすく目につくものだ。でもそうした誤解があるからといって、その文章に意味がないとか、デタラメであるという思いにはならなかった。おそらくそこに書かれていた葛藤や逡巡は本当のもので、むしろ、こんな風に誰かとの対話の不全を抱えながら、それでも前に突き進まざるを得ないのが人生なのだと、改めて思わされた。
*
自分の身に起きたこの卑近な例を、そのまま吉本ばななさんのnoteと同列に語ることはもちろんできない。吉本ばななさんのnoteに書かれていた母や姉との関係性は、何十年という時間をかけて積み重ねられたものであって、バーで何度か会っただけの人との関係性とはまるで重みが違うからだ。
でも、共通するところもあると思う。吉本ばななさんの私小説的なnoteもまた、対話しきれなかった関係性と、それでも突き進まざるを得ない人生について書かれたものだった。私小説的な文章の魅力は、誤解や偏りのない公平な記録であることではなく、むしろ、対話の不全に満ちた人生を、自分の側からしか語れない不完全さごと引き受けるところにあると思うのだ。言い換えればそれは、人生のどうしようもない孤独についての表現である。
しかしそんな文章も、ひとたび公開されれば「これは対話を経た文章なのか」という問いに即座に晒される。孤独でなければ書けないものが、対話なしには読まれない。そうした逆説のなかでしか、私小説的な文章はもう読まれないのかもしれない。
(第12回・了)
※個人の特定につながらないよう一部の事実や出来事を改変して記述しています。
次回連載第13回は8/20(木)公開予定です。
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