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神秘、自由、孤独や幻想…時代とともに移り変わる闇と夜の描かれ方 第9回 絵画の中の夜

 夢と夜の内に閉ざされた空間。その描写がより際立つのが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの〈聖ヨセフの夢〉(一六四二年)なのかもしれない。この十七世紀フランスの画家は、蝋燭の灯りによる光と影のコントラストを演出し、聖性に満ちた空間を作り上げたため、「夜の画家」とも呼ばれている。〈聖ヨセフの夢〉にも、眠る者の前にお告げの天使が現れるというモチーフが見られる。膝の上に聖書を広げ、卓上の燭台を灯したまま、年老いたヨセフは頬杖をつき寝入っている。そこに若い女性のような姿の天使が現れ、ヨセフを揺り起こそうと手を差し伸べる。その優美さや穏やかな表情が、キリストの懐妊を告げに聖母マリアを訪ねる天使を彷彿ほうふつとさせるため、夢でヨセフが耳にした内容は受胎告知だろうと考えられている。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 〈聖ヨセフの夢〉1642年頃 フランス、ナント〔ナント美術館〕
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 〈聖ヨセフの夢〉1642年頃 フランス、ナント〔ナント美術館〕

 ラ・トゥールの絵画の中で、蝋燭は信仰心や精神性の寓意として描かれる。同時にそれは、夜を現出させる重要な小道具でもあった。〈聖ヨセフの夢〉の蝋燭は、長く炎を伸ばして輝くが、その明るい光はほとんど天使の伸ばした腕に遮られてしまっているのだ。それ故に神秘的な使者は影に隠れ、顔と優雅に曲げた左手の一部が白く浮かび上がる。この蝋燭の描写により、観る者にはヨセフと天使の対話が隠されたものと映るだろう。つまり、夢の領域である。画面内の二人だけが目にする神秘が、隠れつつも在る光で暗示されているのだ。
 夜、眠りにつく人の見る夢。この三つのモチーフの結びつきは、聖なる主題から離れるうちに解けてゆき、次第にその構造や均衡に変化が生じていった。眠る人が画面内から消えた時、現実と夢の境界もまた失われてゆく。その結果、夜の情景に夢の領域が混じり込むのではなく、夜そのものが夢の色合いを帯びて詩的に描かれるようになった。

 夜を独自の夢想言語で描いた画家の一人が、ベルギーのポール・デルヴォーだろう。彼の〈青い長椅子〉(一九六七年)は、夜の街の一隅を舞台とした神秘的な作品であるが、現実と夢は地続きのものとなっており、あえてその二つを区別する意味は失われている。すでに画家の描く夜は、一つの自律した世界となっているのだ。白い枕に頭を載せ、裸体の女性が横たわる青い長椅子。それが置かれているのは、硝子張りの家の中である。浅い階段の向こうに続く扉、青ざめた冷たい光を投げる電灯、壁に掛かる満月の夜の風景画、これらが硝子の壁ごしに見て取れる。同じく透明な屋根の向こうには夜空が静かに広がり、壁が取り払われた部屋は夜に沈む街に開かれていた。外には街灯の照らす石畳の通りが延び、画面左奥のトンネルへと続く。灰色のトンネル内にも電灯の光がこぼれ、入り口に佇む通行人の姿を浮かび上がらせていた。この舞台の書割めいた夜の世界の中、長椅子の上で女性は目を半ばふせ、まどろんでいるようにも見えるだろう。そのそばに佇む女性は、燭台を手に取り、長椅子の方に目を向けることはない。暗い赤布はフードのように頭を覆い、マントとなって女性の身体に沿って垂れる。大きくはだけた布の間から、青白い彫刻的な裸体が覗いている。俯く横顔は布に半ば隠れるため、異教の巫女みこのような謎めいた印象を与えるだろう。
 デルヴォーの夜景には、月や蝋燭など伝統的な光源の他、列車や室内を照らす電灯もまた取り込まれている。人工照明は辺りを隈なく照らすものの、その分だけ夜や暗がりの深さを強調する。そして、この〈青い長椅子〉には、眠りと夢を同時に扱う他の絵画とは異なる点が見られる。絵の中に夢見る者の姿がある時、その周囲に夢の空間が広がる。眠る者とその夢という外と内の繋がりを示すためだ。しかし、デルヴォー作品には横たわりまどろむ人がいても、彼女が見つめる夢の内容が見えてこないのだ。むしろ、夢の内の情景であるこの絵には、眠る者のいる現実、つまり外側からの視点が存在しないのだろう。だからこそ、デルヴォーの描く夜は、不在の誰かが思い描く醒めない夢そのものなのかもしれない。

ポール・デルヴォー 〈青い長椅子〉1967年、個人蔵 (c) Foundation Paul Delvaux, Sint-Idesbald - SABAM Belgium / JASPAR 2023 E5267
ポール・デルヴォー 〈青い長椅子〉1967年、個人蔵 (c) Foundation Paul Delvaux, Sint-Idesbald – SABAM Belgium / JASPAR 2023 E5267

 絵画の中の夜をよぎる時だけ、観る者は眠りを忘れて、そこに息づくさまざまな景色に目をこらすのだろう。遠い時間の向こうに消えた夜、眠る間に通り過ぎ、目にすることのなかった夜、書物の内に折り重なる夜。無数に連なるそれが幾つも切り取られ、Kの言葉と名前が記された絵葉書の中に収まっている。私の手元にある彼女からの絵葉書は、ほとんど夜の絵画で占められていた。それは、眠れないまま過ごした夜の光景であり、不眠者の夢に代わるものなのだろう。絵の中に眠る者があれば、Kはそれを羨ましく思いつつ、時には自分の姿をそこに重ね、眠りを妨げることのない静かな夜について想いを巡らせる。今も、彼女は不眠に悩まされている。それでも時折、スクロヴェーニ家礼拝堂内を満たす青が、閉じた瞼の裏を染める夜が訪れる。その時、Kは夢を見ることなく、深く静かな眠りの奥へ沈んでゆくことができるのだ。

編集協力/中嶋美保・露木彩

次回は8月24日(木)公開予定です。

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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