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神秘、自由、孤独や幻想…時代とともに移り変わる闇と夜の描かれ方 第9回 絵画の中の夜

 やがて時代が経つにつれ、ガス灯や電球が浸透するようになるが、蝋燭の光は独特の効果をもたらす舞台道具として用いられた。ダウよりも二百年以上後にも、デンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイの手によって、蝋燭が照らす夜の室内を舞台とした絵画が制作されたが、その光はもっと孤独の気配を際立たせている。彼の〈コイン・コレクター〉(一九〇四年)はダウと異なり、殺風景なまでに室内に小道具が置かれていない。薄暗い闇に浮かぶのは、扉と緑のカーテンの掛かった窓、そばに置かれた机と椅子だけである。机の上には燭台が置かれ、長い蝋燭の二つの灯りが光源となっている。窓硝子の向こうは黒に閉ざされ、蝋燭の灯りだけをぼんやりと映していた。机のそばに腰を下ろす男性もまた、影に包まれ部屋に溶け込んでいるように見える。彼は手元にじっと目を凝らしているが、視線の先にあるものも影に覆われて見ることはできない。この部屋は、ハンマースホイの暮らしていたコペンハーゲンのストランゲーゼ三〇番地の住居の一室であった。同じ蝋燭の灯りを利用しつつも、ダウの作品では天文学者と彼の手元の事物がすべて明るく映しだされているのに対し、ハンマースホイ作品では肝心のコインのコレクションは影に沈んでいる。むしろ主要人物もまた影の中に置くことで、より内省的な空間に仕上げているのではないだろうか。つまり、〈蝋燭の灯りのもとの天文学者〉のように室内を背景にするのではなく、部屋それ自体もまた主役であるのだろう。ダウは光を強くすることで、影とのコントラストから夜という空間を作り出し、ハンマースホイは蝋燭の灯りを朧にすることで、光から影の範囲へと明度のグラデーションによって空間を際立たせているのかもしれない。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ〈コイン・コレクター〉1904年 ノルウェー、オスロ〔ノルウェー国立美術館〕
ヴィルヘルム・ハンマースホイ〈コイン・コレクター〉1904年 ノルウェー、オスロ〔ノルウェー国立美術館〕

 夜の描写は、月や星などの夜間の自然光への着目と大きく関わってくる。月明りや星明りのもとで物の色彩や輪郭がどう映るのか観察を重ねるうちに、夜の風景は一つの主題として発展してゆくことになる。特に幻想的な夜景は、多くのロマン主義の画家たちが好んで取り上げた。カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの〈月を眺める二人の男〉(一八一九年)はその一例である。晩秋の宵の森のわずかに開けた場所から、三日月と金星が沈みかける様子が見られる。そこに散策中の男性二人が佇み、赤みがかった月の光で靄(もや)を帯びた空を眺めていた。ほぼ後ろ姿の二人にはモデルがいると言われており、青灰色のマントに杖をついた年上の男性が、画家フリードリヒ本人である。そして、青みがかったコート姿で、連れの肩に腕をかけてもたれかかるのが、画家の弟子アウグスト・ハインリヒとされる。この二人の両側には、特徴的な形状の樹木が描かれている。画面右側のほぼ枯れた樫の木は、根を露わにしている。それに対し、画面の左上のドイツトウヒは緑のままである。この二つに挟まれる険しい小道は苦難の多い人生を象徴しているが、それを照らして導く三日月をキリストとする解釈もある。象徴的な解釈と同時に、この三日月の描写から、月の欠けた部分が地球に照らされ、微かに見える現象(地球照)を画家は表したのだとする説もある。つまり、自然観察に依る正確さと抒情性、象徴性が一枚の絵の中に溶け込んでいるのだ。
 フリードリヒの風景画は荘厳な美しさを帯び、直接聖書を主題としなくとも、宗教的な聖性や崇高性がそこに重ねられている。その理由の一つに、カンヴァスに広がる光の表現が挙げられるだろう。黄昏や夜明けの散乱する光や、空を柔らかく染める太陽光、そして夜を照らす月の光。その光は画面を照らすのみならず、風景の見え方を変えてしまうのだ。フリードリヒの用いる自然光は、教会の窓から差し込む光に似てどこか静謐で、観る者の内にまで差し込んでくる。その時、観る者と風景の間に対話が生まれるのではないだろうか。

カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ〈月を眺める二人の男〉1819年 ドイツ、ドレスデン〔ノイエ・マイスター絵画〕
カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ〈月を眺める二人の男〉1819年 ドイツ、ドレスデン〔ノイエ・マイスター絵画〕
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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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