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姿の数だけ信仰のスタイルがある。第5回 聖母とマグダラのマリアの描かれ方

西洋絵画を鑑賞するとき、私たちはどこを見ているでしょうか。
全体の雰囲気、色使い、モチーフ……さまざまなアプローチがありますが、細部の意味や作品世界の背景を知れば、より深く絵画を味わうことができます。
古代ギリシャ・ローマ神話、キリスト教、聖母、聖書の物語世界、寓意、異端、魔女……画家が作中に散りばめたヒントに込められた意味とは。
小説執筆と並行して美術研究を重ねる、芥川賞作家の石沢麻依さんによる西洋絵画案内です。

第5回 聖母とマグダラのマリアの描かれ方

 かつてコルマールを風のように歩き回る人と旅したことがある。フランスの北東部、ドイツとの国境付近に位置するアルザス地方のその街は、細やかなよせ細工を丁寧に並べたように木造の家が並び、幾重にも通りが枝分かれしている。いちど横道にそれると、どんどん奥へ入り込んで迷う私を引っ張り上げるように、この旅の同伴者は正しい方向を素早く選ぶのだった。その綺麗な足取りは、柔らかな三月の空気をかき回すリズムとなる。古い時間の重なる街の中を、彼女の赤いコートが鮮やかな目印となって進んでゆく。
 やがてたどり着いたウンターリンデン美術館で、私たちは陰鬱だが凄絶に美しい祭壇画を目にした。静まり返った空間にあるのは、グリューネヴァルトの〈イーゼンハイム祭壇画〉(一五一二―一六年)だった。中央パネルに広がる、光のない重たい夜の荒野。青黒い静寂の中に晒されたままの十字架と、その上で引きるように硬直したキリストの身体。痛めつけられ、すでに生の気配のないそれは、荒廃した孤独な風情すら漂わせていた。他の磔刑たっけい図のように、たくさんの嘆き悲しむ弟子たちや信者に取り巻かれることも、美しい壮大な風景で包み込まれることもなく、その死は何もない荒野の中に無残にも忘れ去られていた。それを見つめる四人のうち、悲嘆を全身で露わにしているのは、白い衣に身を包んだ聖母と、十字架の足もとで金髪を振り乱したマグダラのマリアである。身体の痙攣けいれん的なねじれとそれが表す深い哀しみ。苦痛すら感じさせる二人の女性の姿勢は、暗闇の中で呼応していると目に映った。キリストの弟子聖ヨハネに支えられた聖母も、組み合わせた手を高く差し伸べるマグダラのマリアも、十字架を仰ぐように後ろにのけぞっているのだ。キリストの生涯を記した新約聖書の中で、そしてそれに基づいた無数の絵画の中で、この二人の聖なる女性は神の子の生や苦難、死や復活などに立ち会ってきた。同時に、その物語から抜け出して、独自のイメージをまとい、自らの時間を生きた聖なる女性としての姿が確立している。キリストの時間の中にいた聖なる人たち。その声なき慟哭どうこくのほとばしるような絵の前で、旅の同伴者の赤い背中はじっと動かず、場面からあふれる時間にからめとられたように静止していた。

フランス、アルザス地方のコルマール。旧市街の石畳の道沿いに、中世やルネサンス初期に建てられたハーフティンバー様式の建物が並ぶ。©Shutterstock
フランス、アルザス地方のコルマール。旧市街の石畳の道沿いに、中世やルネサンス初期に建てられたハーフティンバー様式の建物が並ぶ。©Shutterstock
マティアス・グリューネヴァルト〈イーゼンハイム祭壇画〉1516年  ドイツ、コルマール [ウンターリンデン美術館]
マティアス・グリューネヴァルト〈イーゼンハイム祭壇画〉1516年 ドイツ、コルマール [ウンターリンデン美術館]

聖母とキリストの関係性の多様に応じた信仰のスタイル

 聖母の聖性の表し方はとても幅広い。玉座に腰を下ろし、冠を戴いた女王のような姿や、早春を思わせる柔和さと硬質さの入り混じった若い女性像、愛くるしい少女めいた様子から、キリストの死を前にして苦悩に顔をゆがめた年老いた女性まで様々な姿をとる。そして、幼子キリストへの礼拝や授乳など、母子の関係性も絵画の中では多様である。その姿の数だけ、信仰のスタイルが確立してきたとも言えるだろう。そして、キリストから離れて、聖母もまたカトリックでは信仰の対象となり、様々な聖母の図像が生み出されてきたのである。
 ヘラルト・ダフィットの〈処女のなかの聖母マリア〉(一五〇九年)には、聖女に取り囲まれた聖母子の姿が見られる。深い黒を背景とした画面に浮かび上がるのは、聖母子と十人の聖女と二人の奏楽天使、そして二人の寄進者だ。聖女たちはモザイク模様のある床に、聖母マリアは赤い織物で覆われた椅子に腰を下ろしている。その後ろにはヴァイオリンとリュートを奏でる天使がたたずみ、画面の両端で寄進者夫婦がひざまずく。左端にいるのは画家ダフィット(1)、そして右端から顔を覗かせるのがその妻コルネリア・クヌープ(2)。画家自身が寄進したこの作品は、ブリュージュのカルメル会修道院の主祭壇のために描かれたものであった。

ヘラルト・ダフィット〈処女のなかの聖母マリア〉1509年 フランス、ルーアン[市立美術館]
ヘラルト・ダフィット〈処女のなかの聖母マリア〉1509年 フランス、ルーアン[市立美術館]
(1)画家ダフィット (2)ダフィットの妻コルネリア・クヌープ
(1)画家ダフィット (2)ダフィットの妻コルネリア・クヌープ

 聖母子の両側に聖人や聖女が配置された絵画。この構図は「聖会話」と呼ばれており、〈処女のなかの聖母マリア〉もまたその一つであった。「聖会話」という主題には、聖書の物語的な要素はない。異なる時代に生き殉教したキリスト教聖人が、同じ空間内に集う様子を描いたものである。その構図の例として、ジョヴァンニ・ベッリーニの〈サン・ジョッベ祭壇画〉(一四八七年頃)や、ハンス・メムリンクの〈ジャン・ド・スリエの二連祭壇画〉(一四九〇年頃)が挙げられるだろう。玉座の聖母子に仕える風情で、聖堂内や風景内に聖人が佇み、庭園にいる宮廷女性のように、聖母マリアを囲んで殉教聖女たちが緑の中に腰を下ろしていたりする。
 ダフィットの絵画は、この二つのスタイルが混ざり合っているのだろう。十人の聖女のうち一人を除いて、鑑賞者の目にもはっきりとそのアトリビュートが描かれているので、特定が可能となっている。画面左端の暗青色の服をまとう聖ドロテア(薔薇の入った籠)(1)、書物を開く豪奢な服と宝飾品をまとうアレクサンドリアの聖カタリナ(冠に付いた殉教道具の車輪)(2)、彼女に話しかけるように顔を寄せた聖アグネス(仔羊)(3)、聖母とその左隣りの天使の間から顔を出すのは聖アポロニア(抜歯のための鉗子(4)、聖母と画面右側の天使に間には聖ファウスタ(鋸)(5)、橙色の服に身を包み読書する聖ホデリーフェ(絞首を示す白いスカーフ)(6)、その背後から顔を出す聖チェチリア(パイプオルガン)(7)、膝に小さなクッションを載せ、その上で挿絵入り時祷じとう書を広げる緑衣の聖バルバラ(幽閉を暗示する、頭飾りに付いた塔)(8)、画面右端に跪く赤い重たげな上衣の聖ルチア(つまんでいる眼球)(9)。彼女たちは、作品が製作された十六世紀初めの頃の装いをしており、頭部には聖なる光輪もないために、同じ空間にいる画家夫妻との間に時間的な境界がないように見える。
 黒と見まがう青の服に、椅子と床を覆う赤い織物。この二つは、聖母の純粋さと信仰を象徴する色彩だ。星の光をちりばめた宝冠の下、目を伏せたマリアの顔は静謐せいひつで、そしてどこか憂鬱な色をたたえている。その静かな眼差しは、膝の上に座る白い産着姿の幼子キリストへ向けられていた。その両手が握る葡萄はキリストの血を象徴し、遠い時間の先に避けがたく待ち受ける受難を表しているのだ。あたかもその運命を知っているかのように、聖母の右手は幼子をしっかり抱え、左手は苦難を分かち合うかのごとく葡萄の蔓を掴んでいる。
 ダフィットのこの絵の背景には、美しい装飾に満ちた聖堂とおぼしき空間も、聖母子たちを包みこむ瑞々しい風景もない。ただ音を吸い込むような静かな黒だけだ。しかし、その黒によって布地の感触、宝飾品の硬質な輝き、長い髪の毛のけぶるような柔らかさが観る者の触覚を刺激してくるだろう。そして、白い陶器を思わせる顔に差し込む影は、彼女たちの息遣いや体温といった生命の気配までも漂わせている。この「聖会話」の場面を覆うのは深い静寂だ。奏楽天使の楽器からこぼれる音楽は、天鵞絨ビロードのような黒に吸い込まれ、観る者の耳には届かない。周囲の殉教聖女たちもまた声を潜め、憂いに満ちた聖母の物思いを妨げないようにしているのかもしれない。沈黙による静謐な対話。深みのある色彩がたたえる静けさを、観る者は目で捉えるが、いつの間にか耳でもそれを感じ取ることになる。

(1)聖女ドロテア(薔薇の入った籠)(2)アレクサンドリアの聖カタリナ(冠に付いた殉教道具の車輪)(3)聖アグネス(仔羊)(4)聖アポロニア(抜歯のための鉗子) (5)聖ファウスタ(鋸)
(1)聖女ドロテア(薔薇の入った籠)(2)アレクサンドリアの聖カタリナ(冠に付いた殉教道具の車輪)(3)聖アグネス(仔羊)(4)聖アポロニア(抜歯のための鉗子) (5)聖ファウスタ(鋸)
(6)聖ホデリーフェ(絞首を示す白いスカーフ)(7)聖チェチェリア(パイプオルガン)(8)聖バルバラ(幽閉を暗示する、頭飾りに付いた塔)(9)聖ルチア(つまんでいる眼球)
(6)聖ホデリーフェ(絞首を示す白いスカーフ)(7)聖チェチェリア(パイプオルガン)(8)聖バルバラ(幽閉を暗示する、頭飾りに付いた塔)(9)聖ルチア(つまんでいる眼球)
ジョヴァンニ・ベッリーニの〈サン・ジョッベ祭壇画〉1487年頃 イタリア、ヴェネツィア[アカデミア美術館]
ジョヴァンニ・ベッリーニの〈サン・ジョッベ祭壇画〉1487年頃 イタリア、ヴェネツィア[アカデミア美術館]
ハンス・メムリンク〈ジャン・ド・スリエの二連祭壇画〉1490年頃 フランス、パリ[ルーヴル美術館]
ハンス・メムリンク〈ジャン・ド・スリエの二連祭壇画〉1490年頃 フランス、パリ[ルーヴル美術館]

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に小説『貝に続く場所にて』『月の三相』、エッセイ『かりそめの星巡り』がある。

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