よみタイ

神秘、自由、孤独や幻想…時代とともに移り変わる闇と夜の描かれ方 第9回 絵画の中の夜

 象徴性ではなく、より感覚的なものに注目して夜を再構成したのが、十九世紀アメリカの画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの連作〈ノクターン〉である。ロンドンの夜景を描いた作品の一つ〈黒と金色のノクターン―落下する花火〉(一八七二年頃)は、最も色彩を音楽的に重ね、わずか一瞬の印象を幾重にも留めているように思われる。当時のロンドンの有名な行楽地クレモーン・ガーデンで打ち上げられた花火と、夜のテムズ川の光景が主に青と緑、黄色を用いて描かれている。暗い緑を帯びた夜空は、花火が舞い散る火の粉が金粉のようにちりばめられ、打ち上げ花火の煙でぼんやりとかすみがかっている。暗いみなは鏡面となって、空の花火を映し出す。前景の岸辺には、川に沿って散策する人の姿が見られるが、半透明な影と表されるその姿は、夜景に半ば溶け込んでいた。
 ホイッスラーのこの作品は、色彩の運動性のため風景画ではなくほぼ抽象画といった趣がある。しかし、夜の静寂やざわめき、空間の広がり、暗闇に浮かび上がる色彩や光などの印象が重なり合って生まれた絵画は、夜の情景を見事に表しているのではないだろうか。花火という瞬間的に咲いては消えるものを通して情景を再構成することにより、夜の姿が立ち上ってくる。音の連なりが最終的に一つの音楽として認識されるように、一つ一つの色彩が夜の情景を作り上げているのだ。

ジェームズ・マクニール・ホイッスラー 〈黒と金色のノクターン-落下する花火〉1872年頃 アメリカ、デトロイト〔市立美術館〕
ジェームズ・マクニール・ホイッスラー 〈黒と金色のノクターン-落下する花火〉1872年頃 アメリカ、デトロイト〔市立美術館〕

 夜と深く結びつくモチーフに、眠りと夢がある。寝台や草地に横たわり、誰かにもたれかかり、あるいは椅子に腰を下ろしたまま眠る人の姿を描いた作品は多数あるが、基本的に夢は不在のままである。眼を閉じて夢の中に潜り込めば、それを外から見ることはできないからだ。しかし、絵画空間の中で夜と眠り、夢は交差して、眠る人とその人の見る情景を同一場面に描くことになる。それはとりもなおさず、現実と夢の境界を曖昧にし、どのように描くかが問題となってくるのだ。
 聖書や神話の中で、夢はこの世ならざる者からのメッセージを表し、天使や神が夢を通して顕現することになる。ピエロ・デッラ・フランチェスカの〈コンスタンティヌス帝の夢〉(一四四七―六六年)は、聖なる領域と現実を層のように映し出した作品である。この絵画は、アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂の壁画連作、〈聖十字架伝説〉十点の中の一つであり、ヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』を典拠としたものである。アダムの墓に植えられた原罪の木が、キリストの磔刑用の十字架にされ、幾人もの手を経てからイェルサレムに戻るまでの過程が、史実を織り交ぜて記されている。そこに、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスのもとに現れた十字架の奇跡も含まれる。三一二年、コンスタンティヌス帝は帝位継承をめぐり、敵のマクセンティウス帝との戦いに挑もうとしていた。その前夜、夢の中で天使により、十字架を掲げるよう啓示を告げられ、軍旗の印を十字架に替えたところ、マクセンティウス帝に勝利を収めた。

ピエロ・デラ・フランチェスカ 〈コンスタンティヌス帝の夢〉1447-1466年 イタリア、アレッツォ〔サン・フランチェスコ教会〕
ピエロ・デラ・フランチェスカ 〈コンスタンティヌス帝の夢〉1447-1466年 イタリア、アレッツォ〔サン・フランチェスコ教会〕

 <コンスタンティヌス帝の夢〉は、夢の中で皇帝が神のお告げを受け取る場面を表したものである。赤い円錐形の天幕の黄色のとばりが開かれ、コンスタンティヌス帝が寝台で深く眠る姿が覗く(1)。そこに左上から白い天使が羽を広げ、手には金に光る十字架を掲げ、天幕の方へと舞い降りつつあった(2)。画面両端に立つ衛兵のうち、左の男は槍を真っ直ぐに持ち、天幕の方をじっと見つめている(3)。右側の見張りの男は天幕に背を向け、盾としゃくを構えた姿勢で立ちはだかり、皇帝の眠りを破らせまいと構えている(4)。白い服をまとう従者は頬杖をつき、どこか憂鬱そうに物思いにふけりつつ不寝番を務める(5)。この三人は上空より降りてくる聖なる存在に気づくことはない。彼らの眼差しは、光をまとう天使に向けられることなく、ただその清らかな白に身を浸しているのだ。この光を受けて、天幕もやはり内から発光するような輝きを帯びている。暗い夜空に散らばる星の光は弱く、他の天幕は影に沈んでいるので、皇帝を包む光は明らかに超自然的なものなのだ。この夜の情景の中で、夢と現実を分ける境界は天幕の入り口にあるのかもしれない。コンスタンティヌス帝の夢を訪れる天使は、不寝番たちのそばを通り抜けるが、三人の目に映る現実には不可視のままである。これは皇帝のみに許された奇跡なのだ。天幕は顕現した奇跡を招き入れる空間であると同時に、皇帝の夢の内でもある。一つの空間に現実と夢が同在するが、その場にありつつも、見張りたちはその目撃者とはなりえない。外から眠りを見守ることしかできない彼らの存在があるからこそ、この絵全体が物憂げな哀しみに満ちているような気がする。

〈コンスタンティヌス帝の夢〉(1)寝台で眠るコンスタンティヌス帝(2)羽を広げて舞い降りる白い天使(3)槍を持つ衛兵(4)盾と笏を構えた見張りの男(5)頬杖をつく従者
〈コンスタンティヌス帝の夢〉(1)寝台で眠るコンスタンティヌス帝(2)羽を広げて舞い降りる白い天使(3)槍を持つ衛兵(4)盾と笏を構えた見張りの男(5)頬杖をつく従者
1 2 3 4 5 6 7

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Facebookアカウント
  • よみタイX公式アカウント

関連記事

新刊紹介

よみタイ新着記事

新着をもっと見る

石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

週間ランキング 今読まれているホットな記事