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ドイツが豊かな森を描く一方、ボスやブリューゲルが目指した表現とは 第3回 絵の中の物語を包む風景の主役感

西洋絵画を鑑賞するとき、私たちはどこを見ているでしょうか。
全体の雰囲気、色使い、モチーフ……さまざまなアプローチがありますが、細部の意味や作品世界の背景を知れば、より深く絵画を味わうことができます。
古代ギリシャ・ローマ神話、キリスト教、聖母、聖書の物語世界、寓意、異端、魔女……画家が作中に散りばめたヒントに込められた意味とは。
小説執筆と並行して美術研究を重ねる、芥川賞作家の石沢麻依さんによる西洋絵画案内です。

第3回 絵の中の物語を包む風景の主役感

秘密に覆われたままの絵画<嵐(ラ・テンペスタ)>

 夜へと傾いてゆく空気の匂いがする。あまりにも穏やかな青と緑のざわめきを目にした時、まず思った。十六世紀初めのヴェネツィアで活躍したジョルジョーネの〈嵐(ラ・テンペスタ)〉(一五〇五―〇七年)は、秘密に覆われたままの絵画である。硝子がらすの透明感をたたえた川を挟んだ母子(1)と杖を手にした青年(2)は、どんな物語に閉じ込められているのだろうか。彼らが負う役柄については幾つもの説があるが、現在もこの川越しの関係は不透明に沈黙したままだ。
 彼らの沈黙に代わって、豊かな言葉を投げかけるのは、黄金の輝きを内に秘めたような青と緑の風景なのだ。かげりを帯びた緑の天鵞絨ビロードめいた感触が、そして光にわずかに焦げたような匂いが、画面越しに私を包み込む。遠い空に閃く小さな稲妻は(3)、近づく嵐の気配を示し、その静寂に満ちた風景はどこか夢の中でふいと出会ったものと錯覚させる。人物の背後にある白茶けた街は、無人のままどこまでも続いているのかもしれない。このように風景の方が「私」と目を合わせてくる時、それは単なる背景ではなくなる。いまだ語り出さない物語性を包み込んだ〈嵐(ラ・テンペスタ)〉は、風景画としての性質も備えているのだ。
 

ジョルジョーネ〈嵐〉1506年-1509年 イタリア、ヴェネツィア[アカデミア美術館]
ジョルジョーネ〈嵐〉1506年-1509年 イタリア、ヴェネツィア[アカデミア美術館]

 風景画とは、主題の背景に小さく収まっていた世界の断片が、鑑賞者の方に身を乗り出し画面を大きく占めたものなのだろう。物語をクローズアップして、演劇的に時間を切り取って見せる宗教画や歴史画に対し、物語から距離を置き、それを包む自然や都市の光景が主役となっているのが風景画である。つまり、空間への新しい視点によって生み出されたものと言えるかもしれない。そこには、写実的に捉えられた土地の姿もあれば、どことも知れない幻想の地を表したものもある。かつての画家たちは、彼らが根を下ろした土地の風景を再現し、旅の間に目にした自然を素描し、訪れた異国の地を描き留めていった。素描ちょうと記憶に刻まれた印象は、幻想郷とも言うべき土地へと姿を変えたかもしれない。だから、夢の中で足を踏み入れた土地や、列車の窓越しに眺めた景色の断片が、風景画の中に紛れ込んでいることもある。すると、絵画窓が切り取る光景は、見る者の記憶へと続いてゆき、空間となって包み込んでくる。その時、鑑賞者は見知らぬ土地や風景の中を通り抜ける、ひとりの旅人となるのだろう。
 すでにドイツで五年以上暮らしているが、カンヴァスや板絵の中ばかりではなく、列車の窓からも様々な風景画を目にしてきた。ドイツの街から街へと移動する時、列車の窓は必ず森を映し、緑のこまやかな色合いをちらつかせる。その中に入ったとたんに光が翳り、濃淡の異なる緑はステンドグラスを形作ってゆく。森は緑の美術館だ。窓はさざめく緑の無数の表情を映し取るが、それは移ろい、いつの間にか平原へ、また森へと風景画を描いてみせる。

 そこにジョルジョーネの〈嵐(ラ・テンペスタ)〉のような風景を目にすることはない。こちらで生活するうちに、アルプス山脈を挟んだ南北の地域の絵画の印象は、そのまま自然風景にも当てはまるようになってきた。イタリア・ルネサンス絵画に現れた風景は、セピア色や黄褐色のトーンを帯び、色彩の奥底に光の笑みが漂っているようだ。それに対し、北方絵画の風景表現は、どんなに色彩が澄明であっても、青白い翳りを潜ませたものと目に映る。

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年『貝に続く場所にて』で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。

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