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ボッティチェリ、クラーナハがウェヌス(ヴィーナス)を通して伝えたかったこととは 第7回 美女たちが見つめる先に映るもの

西洋絵画を鑑賞するとき、私たちはどこを見ているでしょうか。
全体の雰囲気、色使い、モチーフ……さまざまなアプローチがありますが、細部の意味や作品世界の背景を知れば、より深く絵画を味わうことができます。
古代ギリシャ・ローマ神話、キリスト教、聖母、聖書の物語世界、寓意、異端、魔女……画家が作中に散りばめたヒントに込められた意味とは。
小説執筆と並行して美術研究を重ねる、芥川賞作家の石沢麻依さんによる西洋絵画案内です。

第7回 美女たちが見つめる先に映るもの

 冬の灰色に染まった街並みを背景に、大きな帆立貝の殻が一つ、無造作に置かれていた。人が一人乗ることのできるそれは、外側は鈍い金に、内側は柔らかな白に塗られている。張りぼての貝は十分に装飾的ではあるが、切れ目なく続く乾いたベルリンの街にはなじまず、歪に浮かび上がっていた。弱々しくも重たい陽射しの下、貝のオブジェは寒々しく晒されるだけで、そこに立とうとする人は誰もいなかった。
 二〇一六年の元旦、私はベルリンのティーアガルテン地区にある絵画館で、ボッティチェリの豊かな色彩の中に潜り込み、彼の作品に向けられた無数の眼差しを追いかけていた。友人のところで大晦日を過ごし、その翌日に特別展覧会「ボッティチェリ・ルネサンス(The Botticelli Renaissance)」(二〇一五年九月二十四日―二〇一六年一月二十四日)を訪れていたのである。イタリア・ルネサンスの画家の一人、フィレンツェで活躍したサンドロ・ボッティチェリの神話画や宗教画、肖像画、そして素描が集められ、夕暮れ時を思わせる薄暗い展示室に、彼の絵画からこぼれる甘い光が滲み出す。同時に、ボッティチェリ作品に触発された作品も、一緒に置かれていた。特に、〈ウェヌスの誕生〉(一四八二年頃)と〈春〉(一四七七―七八年頃)はルネサンス以降の絵画、そして現代の写真や映画などでもパスティーシュされてきたのである。〈誕生〉の方では、貝の上に佇む裸体像として、〈春〉では白い服に赤のショールをまとう妊婦姿で、ウェヌス(英語読みはヴィーナス)が描きこまれている。十九世紀のラファエル前派が傾倒したボッティチェリ風の様式、アンディー・ウォーホルやルネ・マグリット、サルバドール・ダリなど二十世紀の画家たちによる作品の引用、その他にも活人画風の写真、絵画からイメージされた衣装や、現代的な解釈を下敷きにしたポスターなど、二人のウェヌスはさまざまな変容を見せていた。
 ウェヌス(アフロディテ)は、古代から現代に至るまで無数のイメージをまといつつ、制作されてきた女神である。ヘシオドスの『神統記』によると、切り落とされたウラノスの性器が海に落ち、その時に湧き出た泡から、この愛と美の化身は誕生したとされている。鍛冶の神ウルカヌスを夫とするが、絵画の上では戦の神マルス(アレス)や美しい青年アドニスなど恋人と共に描かれることの方が多い。また、ウェヌスのアトリビュートとして、クピド(アモル)と呼ばれる有翼の幼児が、大抵は弓矢を手に寄り添っている。

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ボッティチェリ〈ウェヌスの誕生〉1482年頃 イタリア、フィレンツェ〔ウフィッツィ美術館〕
ボッティチェリ〈ウェヌスの誕生〉1482年頃 イタリア、フィレンツェ〔ウフィッツィ美術館〕
ボッティチェリ〈春〉1477-1478年頃 イタリア、フィレンツェ〔ウフィッツィ美術館〕
ボッティチェリ〈春〉1477-1478年頃 イタリア、フィレンツェ〔ウフィッツィ美術館〕

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に小説『貝に続く場所にて』『月の三相』、エッセイ『かりそめの星巡り』がある。

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