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斬首、殴打…彼女たちはなぜこのような行為に出たか 第8回 ファム・ファタル(宿命の女)というレッテルを貼られた女性たち

西洋絵画を鑑賞するとき、私たちはどこを見ているでしょうか。
全体の雰囲気、色使い、モチーフ……さまざまなアプローチがありますが、細部の意味や作品世界の背景を知れば、より深く絵画を味わうことができます。
古代ギリシャ・ローマ神話、キリスト教、聖母、聖書の物語世界、寓意、異端、魔女……画家が作中に散りばめたヒントに込められた意味とは。
小説執筆と並行して美術研究を重ねる、芥川賞作家の石沢麻依さんによる西洋絵画案内です。

第8回 ファム・ファタル(宿命の女)というレッテルを貼られた女性たち

 薄暗い舞台に映える鮮やかな火の色。それをまとう女性の声が高く歌うように張り上げられ、小さなホールを満たしていった。きいん、と耳鳴りを引き起こす金属質の響き。それに呼応し震える橙色だいだいいろの衣裳。手が宙に差し伸べられ、緩やかな袖が二の腕まで滑り落ちると、舞台照明にその白さはかすかに発光するように冷たく映えた。
 ゲッティンゲンの旧市街の南にある小さな劇場で、私は友人たちと『デミアン』の舞台にじっと目を凝らしていた。五年以上も前、ゲッティンゲンで再び暮らし始めた頃のことだった。ある夜、語学学校の友人に誘われ、ヘルマン・ヘッセの小説を現代に置き換えたという舞台を見に行ったのである。しかし、小さな舞台で展開するそれは、少しばかり人物の時間をちぐはぐにしていた。看板を下ろした地下酒場といった風情の書割。それを背にする語り手のシンクレールは、四谷シモンの少年人形を思わせる装いをして、無理に少年性を引き出された感が否めなかった。反対にデミアンが身に着けているのは、暗い青のジャケットとズボンに、サングラスである。どう見ても、彼をいじめから救い出し、カインの印を持つ同士として導くというよりは、むしろ酒や煙草など分かりやすい退廃の道に引きずり込みそうな雰囲気を醸し出していた。

 さらに気になったのは、舞台に美しい炎のように立ち現れる女性だった。あでやかな橙色のゆったりとしたローブのせいで、女性には異教の巫女といった印象が付きまとっている。謎めいたやり方でデミアンがシンクレールに送りつけたメモの内容を、かん高い声は歌うように読み上げる。神の名はアブラクサス。そう繰り返す神託者の声は、硝子がらすの波となってホールを覆いつくした。黒髪を振り乱すその人は、後ほどデミアンの美しき母親エヴァ夫人として、再び姿を見せることになる。長い時を重ねた叡智をその身に宿しつつも、年齢を超えた優美さや、厳かな美しさに満ちた力強い女性。小説から浮かび上がるこの印象に、ホールに響き渡る声が大きなひびを入れてくる。もう一人のデミアンとも言うべき女性は、舞台の上ではシンクレールを惑わす恋人のように振る舞うばかりである。見れば見るほど、ファム・ファタルという味付けが強すぎると思われてならなかった。

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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