2020.12.18
「生きづらさ」のわかりづらさ
言葉のあとさき 第14回
「生きづらさ」という言葉が流行っています。
「生きづらさを抱えたあなたへ」
とか、
「生きづらい世の中に負けない」
といった文を読む度に、「はたして私は、『生きやすい』のか『生きづらい』のか?」と、自問するのでした。
性格は暗いしいつも少数派だしひねくれているし意地悪だし……ということで、
「ああ、生きるって楽しい!」
と思ってきたわけではない。とはいえそれなりに楽しいこともあって、
「ええ、生きづらいんです私」
と、堂々と言うのも、気がひける。というよりも、「生きづらさ」の正体が今ひとつ、私にはわかっていないのです。
「生きづらい」という状態は、主に若者にあてはまるのだと思います。五十代とか六十代にもなって、
「私、生きづらいんです」
と真顔で言ったとて、
「えーとこの五十年の間に、その生きづらさを自分で解決することはできなかったんですかね?」
と思われるのが関の山。
まだ物心両面で生きる術を確立していない時期にある人が、何となく心の晴れない日々を過ごしている時に、「生きづらさ」という言葉は適用されることは、何となくわかる。では昔は、生きづらさを抱えている人はいなかったのだろうか。
……と考えると、若者が抱きがちな悶々とした気分は、昔は「悩み」というシンプルな言葉で表現されていたのです。
仲間はずれにされたといっては悩み、成績が今ひとつといっては悩み……ということで、若い頃は誰しも、悩み多き日々を過ごすもの。鬱々と悩んでいる若者がいたならば、大人達は「ま、若いから色々あるだろう」と、放置していました。人は悩むことによって成長していくのだから、と。