2026.10.26
出会ってから37年間、私の生涯を目撃し続けてきた2匹のカバ
家はそれを大事に抱えて、ときにぽろりとおとしていく。
村井理子さんが、自宅や、実家、義実家で見つけた「もの」を通して
忘れがたい記憶の断片を綴るエッセイ。
第2回は、カナダ留学中に出会った、運命のペンケースのお話です。
第2回 追いかけてくるペンケース

私が十八歳のときの話。記憶の詳細はぼんやりとしてしまっているが、その日、私はカナダのトロントにあるロイヤル・オンタリオ博物館を訪れていた。記憶が定かであれば、たった一人で行った。当時は留学先の学生寮で暮らしていたが、その日は週末で、友だちも皆外出していた。誰もいない寮の部屋で一人で過ごしていると、日本が恋しくなる日々だった。少しでも油断すると、涙が出た。両親に会いたいと思うようになっていた。チャイナタウンの日系スーパーの片隅で売られていた小説の文庫本(赤川次郎作品が多かった)は、すべて読み尽くし、日本語に飢えていた時期だ。その日、何もやることがなく、孤独で時間を持て余した私は、そうだ、今日は勇気を出して、一人で街に出ようと思い立った。泣いているよりはましだと思ったから。
当時の私は今からは想像もつかないほど内向的で、友だちは多かったが、外出して思い切り遊んだり、ショッピングをしたり、映画を観るといった、その年代の若者らしいことを、ほとんどしていなかった。あまり喋らない、うつむきがちなアジア人留学生を積極的に誘ってくれる学生も少なかった。同じような性格のジョアンというカナダ人の寮生と仲良くなって、陽気な学生たちがおしゃれをして出払った週末、がらんとした寮で、二人でボソボソと趣味の話をして、夕方に袋麺を一緒に食べるのが心地よかった。一人で外出しなければならない日は、朝から憂鬱だった。電車に乗れば二十分程度で行けるダウンタウンに憧れはあったけれど、どうしても積極的になれない性格だったのだ。できれば寮のベッドに寝転んで、雑誌や本を読んでいたい。ジョアンのことは大好きだったが、贅沢を言うと、わずかに存在していた私以外の日本人留学生と日本のことを語り合いたいと思う日も多かった。当然、日本語で。
それでも、寮生活が多少長くなってくると、徐々に周囲の環境に慣れて大胆になっていった。私は日本人だ、ここには馴染めないのだという頑なな気持ちが少しずつほぐれて、日本人だけどカナダに住んでいる半分カナダ人みたいなものだと思うようになった。一人でふらりと街に出て、ここで生まれ育ちましたよみたいな顔をして買い物をする機会も増えていった。そして体重も順調に増えていった。寮の近くにあったフローズン・ヨーグルトの店や、巨大なクッキーを売っていたスーパーなどに通う生活がスタートしていた。徐々に行動範囲は広がりつつあった。今思い返してみれば、十八歳の頃の私は、ターニングポイントを迎えつつあったのだと思う。内に籠もるのか、それとも外に飛び出すのか。無意識の選択ではあったけれど、私は外に飛び出すことを選んだのだろう。だから、寮にジョアンも日本人留学生もいなかったその日、一人でダウンタウンに向かうことにしたのだ。
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その日の計画は、こうだった。まずは電車でダウンタウンに出て、ロイヤル・オンタリオ博物館に行く。ゆっくりと時間をかけて展示物を見る。せっかく海外にいるのだから、チャンスを無駄にしてはダメだ。寮のなかにいるのだったら、日本にいるのと変わりない。だから、私はいろいろな経験を積まねばならない。博物館はうってつけである。博物館の次はチャイナタウンに行く。なぜかというと、チャイナタウンは楽しいから。教会の帰りに数回立ち寄ったことのある韓国料理レストランで、ビビンバを食べよう。あのビビンバは最高に美味しい。そして次は、絶対に、絶対に、日系スーパーだ! カップヌードルと塩ラーメンと、文庫本と数週間遅れのゴシップ誌をたっぷり買って、そして寮に戻るのだ。これらをすべて一人でやりきることができたら、きっと私は満足するだろうと思った。そして、いざ!という感じで、バックパックを背負って寮を出たのだ。
寮から徒歩で十分程度の駅に行き、電車に乗った。トロントは比較的治安が良い街とされるが、一人で乗る電車にはさすがに緊張した。それでも、地元の人みたいな顔をしてロイヤル・オンタリオ博物館の最寄り駅に到着すると、真っ直ぐ博物館へと向かった。トロントの街中でも緑が多い地域で、建物も美しかった記憶がうっすらある。博物館内はとても広く、膨大な数の展示物があった。丸一日かけたとしても、すべてを見ることはできないはずだ。日本の絵画や美術品も多く、私は展示物を堪能したはずである。なぜ、「はずである」と書くかというと、展示物のことはあまり記憶になく、実は記憶に強く残っているのは、ミュージアム・ショップのことだからだ。
今現在もそうだけれど、当時の私はすでに買い物が大好きだった。特に、美術館や博物館に併設されているミュージアム・ショップが何より好きだし、好きだった。いろいろな国の美術館や博物館に行ったが、ショップを見ないことなど一度もなかったはずだ。そして、たった一人でロイヤル・オンタリオ博物館を訪れた記念すべきこの日も、私はミュージアム・ショップに行き、そして買い物をした。当時は文具を集めていたため、ペンや便せん、絵ハガキ、ペンケースを買った。
前置きが長かった。ようやくペンケースについて書く。もう何十年も私を追いかけてくる問題のペンケースを買ったのは、実はこの日、ロイヤル・オンタリオ博物館でのことだった。小ぶりなサイズのブリキ製で、カバが二匹、水浴びをしているイラストが描かれている。私はカバと猿と鳥と犬と猫が好きだが、きっと当時もそうで、水浴びするカバの姿に惹かれて購入したのだと思う。ひと目見て、とても気に入って購入した。なぜかそのシーンだけ鮮明に記憶している。ミュージアム・ショップの棚の片隅にあって、見つけた瞬間に「買う!」と思った。しばらく他の商品も見て、ペンケースや文具を購入して、バックパックに詰め込んだ。ペンケースが入ったバックパックを背負った私は博物館を十分堪能すると、颯爽とチャイナタウンに向かった。ビビンバも食べた。文庫本も買った。スリに財布をすられそうになったのだが、一人で行動することで自信を得ていた私は、地元の人気取りで禁断の四文字を駆使して撃退し、「スリまでやっつけた!」と、意気揚々と寮に戻ったのだ。あの日から三十七年、今、カバのペンケースは私の狭いデスクのうえにある。なぜ?
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