2026.10.24
「一次情報」を使って大切な人について語るということ【小川哲×長瀬海 対談・後編】
長瀬海さんの初めての著書『僕と「先生」』も同時期に発売され、刊行記念として大盛堂書店で行われたトークイベントの後編をお届けします。
後編では、『僕と「先生」』という書籍の魅力と独自性を、小川さんがたっぷり語っています。
(構成:長瀬海)
☆対談の前編はこちら☆
アフォリズムとは何なのか?「『東京』というゲーム」の炎上を生んだ切り抜き【小川哲×長瀬海 対談・前編】

記憶に残るアフォリズム
長瀬 今回のイベントのために、僕と小川くんで「記憶に残るアフォリズム」をいくつか選びました。僕が選んだ言葉の一つにお笑い芸人のドンデコルテ・渡辺銀次さんによる「認められたいという想いは、承認欲求とかいう生易しいものではないんですよ。」があります。『屁理屈と哲学』のために小川くんの言葉と向き合っているうちに、自然とアフォリズム蒐集家の頭になってしまっていたんだよね。本を読んでも、テレビを見ていても、あっ、これアフォリズムになるんじゃないか!なんて考えるようになってて。
去年の暮れは、M-1グランプリで準優勝したドンデコルテがいろんなメディアに出るようになっていた時期でした。アフォリズム蒐集家の頭で渡辺銀次さんのお笑いを見ていたら、この人でアフォリズム本を一冊作れるんじゃないかと思ったね。それくらい思弁性のある言葉を扱う人なんですよ、銀次さんは。
さっきのアフォリズムは2024年のM-1のプロモーション動画で銀次さんが語ったものだけど、この言葉には長年、他人の部屋で燻り続けていた渡辺銀次という中年男性の悲哀と実存がたっぷりと詰まっている。(注:渡辺銀次さんは同期のカゲヤマ・益田康平さんの実家に住んでいる。)
小川 なかなか思弁的な言葉だよね。「生易しい」と言われることで、「承認欲求」という言葉が相対化される。「認められたいという想い」にもう一段、深い部分があることに気づかされるというか。
長瀬 小川くんはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(野矢茂樹訳、岩波文庫)に出てくる有名なフレーズ「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」を選んでいるね。
小川 「記憶に残るアフォリズム」と言われて真っ先に思い浮かんだ文章がこれだった。これまでの人生で出会った言葉のなかでも一番かっこいいと思う。『論理哲学論考』の序文に書かれているんだけど、あの本を読み始めた段階では意味がよくわからないから、首を傾げるんだよね。でも、最後までたどり着くとその真意が理解できて、鳥肌が立つ。そういう感動を味わえる言葉です。
長瀬 同じく近代哲学から僕はニーチェの「愛せなければ通過せよ。」を選びました。僕はこれをニーチェから学んだというより、加藤典洋さんに教わった。加藤さんはゼミでよく学生にこの言葉を伝えていました。学生時代って頭でっかちになりがちだから、批評をするにも批判のための批判をしてしまいかねない。でもそれって単なる否定にしかならなくて、言葉も硬直しちゃうし、新たな価値を何も生み出せないんですよ。そういうときは「愛せなければ通過せよ」でいいんだよ、と加藤さんは言っていた。
小川 嫌いなものをただ嫌いだというだけの批評って面白くないんだよね。やっぱり批判はその人や作品に期待しているからこそするべきであってさ。批判には自分の愛や希望を託さなきゃいけないという意味も込められている言葉だと思う。
長瀬 そうそう。批判をするなというわけじゃないんですよ。批判は愛の成就をもってせよ、ということでもある。特に今のSNS社会では誰かに対する気に喰わなさが先行してしまうからついつい攻撃になってしまうよね。それってやっぱり不毛だし、何も生み出さない。そういう今だからこそ「愛せなければ通過せよ」の意味を確かめてもらいたい。
一次情報を使った批評
小川 加藤典洋さんの話があったけど、長瀬くんの新刊『僕と「先生」』は加藤さんと深く付きあった14年間について綴った本ですね。とてもおもしろかったです。長瀬くんとはそこそこ付きあいが長いけど、どんな人生を歩んできたのか知らなかったから新鮮でもあった。早稲田の国際教養学部でアメリカ留学を経験してたんだ、とか。大学卒業後にケーブルテレビの会社に入って過酷な営業を強いられてたのも初めて知った。
そういう観点から見ても、『僕と「先生」』は変な本なんだよね。加藤典洋との出会いと交流が書かれ、その時々で長瀬くんがどういうライフステージにいたのかも綴られる。さらに加藤が書いたテクストの読み解きが展開されるんだけど、そこには加藤が論じた別の作家のテクストに関する話も混ざる。いろんな階層の話が全て同じレベルで語られているのがとても不思議だった。
もっとも奇妙なのは、この本には一次情報、つまり長瀬くんしか知りえない加藤典洋についての情報がたくさん詰まっていること。一般的に批評や評論は、テクストを分析することに主眼が置かれる。書き手に言及する際にも、誰でもアクセスできる資料を用いることが多い。しかし、この本は長瀬くんの思い出やそのなかにある加藤典洋像をベースに書かれているんですよ。それによって加藤典洋の解釈がダイナミックにされていくから、読者のなかにある加藤典洋の像も大きく変容するわけ。批評についてのメタ批評として読めるんだけど、でもそれだけじゃない。かといって単なる回想録でもない。今までに味わったことのない読み心地を受ける本だと思った。
長瀬 ありがとうございます。お世辞じゃないよね(笑)?
小川 お世辞じゃない(笑)。あと、テクスト論について考えているところもよかった。加藤典洋はテクスト論に対してアンチテーゼを唱えた人なんだよね。テクスト論というのは、作者は死んだことにして書かれた文字列だけから解釈をしていこうという読解法のこと。加藤はそれだと小説の本質は見えないと考えた。何かを読んだときに個人の内側で掴まれる直観からはじまり、それがやがて公共的な世界と結びついていく運動こそが、加藤にとっての文学だったことが長瀬くんの本からはわかる。
それは小説の読解についてだけの理論ではなく、加藤のあらゆる思想の根幹にあるものだったわけだよね。そしてそれと同じ手法を長瀬くんはこのエッセイでとっている。長瀬くんの内側にしかない一次情報をためらうことなく使って批評を紡いでいるのはそのためなんだと思った。
長瀬 僕が試みたことを的確に掴んでくれて、すごく嬉しいです。『僕と「先生」』を出してから、これはエッセイなんですか批評なんですかとよく聞かれるんだけど、それに対して僕はいつも「エッセイの皮を被った文芸批評」「文芸批評のふりをしたエッセイ」と答えています。そもそも小林秀雄以来、日本の文芸批評は伝統的にその両面を持っていたはずなんですよ。でもある時期からアカデミズムのなかに批評が取り込まれ、研究論文と批評の境目がわからなくなった結果、一次情報をなるべく使わずにテクストを分析をすることがふつうになった。僕は加藤典洋という自分にとって大切な批評家を語るときにそういう語り方はしたくなかった。
小川 というか無理だろうね。長瀬くんと加藤典洋の濃密な繋がりがある限り、客観的な手つきで論じることはできない気がする。
長瀬 まさにそう。自分にできるのは、僕と加藤さんの間にある距離感をもう一度考えることだけだと思ったから、エッセイ的な文体で語るしかないと思った。そのためには「僕」を最初に置かなくちゃいけない。だからタイトルも『「先生」と僕』じゃなくて『僕と「先生」』にした。自分の内側にある実感を手がかりに加藤さんについて語ることが僕にとっての批評だと考えた結果、一次情報も躊躇せずに使うことを決意したわけです。
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