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濱野ちひろ「一期一宴」

イスタンブールの大家族とチャイと「ちゃんかく」と。

イスタンブールではどの家庭にお邪魔しようとキッチンには2段式のチャイのポットがあった。大家族宅では「チャイいる?」と一時間に3〜4回聞かれた。
イスタンブールではどの家庭にお邪魔しようとキッチンには2段式のチャイのポットがあった。大家族宅では「チャイいる?」と一時間に3〜4回聞かれた。

 この家族とは、その後も繰り返し会い、私は何度も彼女たちの家に泊まった。そうすると、「ちゃんかく」の話よりもずっと複雑な話さえ、私は理解できるようになった。トルコ語がわかるようになったわけではない。彼らが英語を習得したわけでもない。彼らと私の間に、いわば新しい「通路」のようなものができて、言葉を抜きにしたやりとりができるようになったのである。もちろん、細かいことを伝えるのは難しい。だが、その場での重要なことがらは必ず通じるようになった。通じていること、通じるはずだということを、彼らも私もまったく疑わなかった。

 「ちゃんかく」の晩からおよそ一年後だっただろうか。二度目に彼らの家に行った時、ニーサとエスマの母親が私に言った。「ニーサはね、ちひろが帰ってから一週間泣き続けたのよ。ちひろが恋しい。一緒に眠りたい。どうしていないの、って」。この話ももちろん、私達の「通路」を使って伝えられた。言葉ではない表現で、彼女は「一週間」という概念さえも伝えてきた。ニーサが愛らしくて、私はその話を聞いて、涙ぐまずにはいられなかった。

 いまではもう、ニーサは大きくなっているはずだ。しばらく会えていないから、そろそろ会いに行けたらいいな、と心から思う。次は、赤ちゃん言葉ではない「三角」を彼女に教えてもらわなければ。だが私は相変わらず、トルコ語を習得する気にはなっていない。むしろ、彼女たちとは言葉を抜いた「通路」でのやりとりを、死ぬまで続けていけたらいいなと思ってしまうのだ。

ブルーモスク(スルタン・アフメトモスク)は、イスタンブールを代表する歴史的建造物のひとつ。観光客もスカーフを巻いて髪を隠して中に入る。
ブルーモスク(スルタン・アフメトモスク)は、イスタンブールを代表する歴史的建造物のひとつ。観光客もスカーフを巻いて髪を隠して中に入る。

濱野ちひろさんの「一期一宴」は隔週連載。次回は、2/26(金)配信予定です。お楽しみに。

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濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

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