よみタイ

システムエンジニアを退職して新宿ゴールデン街の〈プチ文壇バー〉で働き始めたら人生が激変した

「抱いていい?」とデートに誘われたメモリアルなお店

店番をするとして、どの店で店番をするのか、という問題が生じてくる。ゴールデン街には約300の店舗があるから迷いそうだ。でも、これはゴールデン街で飲んでいる間に自然と決まってくる。飲み始めた頃に100店舗近く飲みに行ったけど、結局、自分と相性が良くてよく通うようになる店は5~6店舗くらいに収束していくし、シフトの空きの問題とか、そこのオーナーなり店番の人と仲良くなれるかという事情を含めると、現実的に店番になろうと考えることのできる店は1~2店舗くらいに絞られる。

僕にとってそういった機会に恵まれた店が、プチ文壇バーを称している『月に吠える』という店だった。客層も自分と同じ年齢くらいの人が多いし、本がテーマの店だけあって言葉を使って物事を考えるのが好きな人が多いし、テキーラを一気飲みするみたいな激しい飲み方が無いし、おしゃれすぎず適度に薄汚いから居心地がよく、1階にあって外から店内を覗きやすい店だから新規の人もよく入ってきて新陳代謝が良いので飽きることなく通える店になっていた。それになにより、自分にとってメモリアルな店だったことも大きい。

本連載の1話目に書いた、初対面のボブカット美女に一言目から「抱いていい?」とデートに誘われたのが『月に吠える』だった。生まれたてのカモが初めて認識した個体を親だと思い込んで愛着を示してしまうように、初めてゴールデン街でお酒を飲むことの楽しみを認識させてくれた『月に吠える』に愛着を持ってしまっていた。

2022年9月に本連載の1話目が掲載されたのだけど、2か月前の7月には『月に吠える』の肥沼和之オーナーに文章の掲載許可の連絡をしていた。そしたら「ぜひ一度飲みましょう」とお誘いをしてくれたので、ゴールデン街で肥沼オーナーと一緒に飲むことになった。その際に「お店で働かせてくれませんか?」とお願いしてみた。「今、人が足りてるから」と最初はやんわり断られてしまったのだけど、「じゃあ誰かにシフト譲ってもらえばいいですかね?」と聞いてみたら「それならオッケーです」ということで、『月に吠える』でシフトを譲ってもらえる人を探すことにした。

ゴールデン街には曜日によって全く違う店番の人が立っている店が多い。『月に吠える』もそうだった。曜日ごとに店番の人が違った。だから、シフトを譲ってもらうことイコールその人が店をやめるということになってしまうから、シフトを譲ってもらうことは難しそうだった。でも、1人だけ例外の男がいた。他の人は19時~0時のシフトに入っているのに、その男だけは金土日の24時~朝の時間帯に働いていた。定職に就かず、実家に住みながらゴールデン街で店番を10年やっている、29歳の男。本連載の1話目に出てきた、中澤雄介という男だ。

カウンターの中に立つナカザワ君は、小太りで、海藻のような髪が肩まで伸び、目深に被った黒いキャップの下から女性器を水平にしたような横長の目を覗かせる、奇妙な男だった。

ゴールデン街で店番歴10年  中澤雄介さん
ゴールデン街で店番歴10年 中澤雄介さん

中澤雄介くんが店番をしている時間に『月に吠える』に飲みに行って、「働きたいからシフト1つ譲ってください」とお願いをしたら、二つ返事でオッケーしてくれた。金曜日の24時~朝までのシフトを貰えることになった。肥沼オーナーにシフトを譲ってもらえたことを報告したら「中澤くんと初めて出会った10年前は、彼はカルチャー系のライターになるって言ってもっと目がキラキラしてたんだけど、ゴールデン街に染まるにつれて目の光が消えていって将来が心配になってたから、彼のシフトが減って安心してる部分もあります」と言ってくれた。そんなわけで、金曜日の24時から朝まで『月に吠える』の店番に週1で入ることになった。

 *

2022年8月5日(金)から店番が始まった。初めの2回は中澤雄介くんと一緒に店番に入って研修をしてもらった。

まず、僕はお酒の作り方もよくわかっていなかった。居酒屋で働いたことがあったり家でお酒をつくって飲む人からしたら信じられないことらしいが、ウーロンハイやハイボールの作り方すらわからなかった。ということで、中澤雄介くんと一緒に店番に入って、オン・ザ・ジョブ・トレーニングでお酒の作り方を学んだ。あとは酒屋に酒を発注する方法とか、掃除の仕方とか、基本的なことを教えてもらった。

「オーナーには内緒だけど、キンミヤの水割りくらいだったら勝手に飲んじゃってもいいから。イヒヒヒヒッ!」

と、中澤雄介くんは店番中に店の酒をこっそり飲む方法まで教えてくれた。

それから、会計を終えて店を出るお客さんに「行ってらっしゃい」と挨拶することも教えてくれた。ゴールデン街は飲み屋がひしめき合っているのに、不思議なことに店同士の客の取り合いというか、売上競争をしているような空気感がほとんどない。お客さんは他の店にはしごして飲むのが当たり前であるし、店の中の人もそういうもんだと思っているから、会計を終えたお客さんを「行ってらっしゃい」と送り出す文化がある。商売をしているのに商売っ気がない、不思議な街だ。

それからさらに上級テクニックを中澤雄介くんは教えてくれた。深夜番をしていると、たまに泥酔して朝何時になっても帰らなくなってしまう客が現れる。そういうときは、24時間空いてる近くの店に連れていってその店にぶち込んでしまえばいいそうだ。「あそこはゴールデン街のゴミ箱だ! イヒヒヒヒッ!」と、どんな人でも受け入れてくれるお店を教えてくれた。

さらに、中澤雄介くんから教えてもらったというか、中澤雄介くんを観察して僕が勝手に学んだこともある。ある日の朝方。ゴールデン街で一人で飲んでいて『月に吠える』で飲みなおそうと思ったら店が閉まっていたことがあった。店内の明かりがついていたから窓から店内を覗き込んでみたら、中澤雄介くんが懇意にしている女の子と2人で喋っていた。どうしようもない泥酔客が朝まで残ったら他の店にぶち込むが、懇意にしている女の子が朝まで残ったときには店の鍵を閉めて1対1の時間を楽しむ。小さな店を舞台装置としてそんな風に2人の時間をつくれてしまうことを、窓の外から僕は勝手に学ばせてもらったのである。

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山下素童

1992年生まれ。現在は無職。著書に『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』『彼女が僕としたセックスは動画の中と完全に同じだった』。

Twitter@sirotodotei

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