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システムエンジニアを退職して新宿ゴールデン街の〈プチ文壇バー〉で働き始めたら人生が激変した

システムエンジニアをやめた理由

そんなこんなで2回の研修を終えて独り立ちすることになった。自分でもちょっと驚いたのだけど、研修を終えてから独り立ちするまでの1週間の間に、僕は本職のシステムエンジニアを退職して定職を失ってしまった。定職を失うところまで中澤雄介くんから教わってしまったようだ。

システムエンジニアをやめた理由はいろいろあるのだが、一番の理由としては、とにかく労働意欲が減退したことが大きかった。小売店の人事システムや、POSシステム、管理会計システムのアプリを開発していたのだけど、『月に吠える』ではそんなアプリは一切使われていなかった。

ITシステムというのは基本的に属人性を排除し、業務の効率性・生産性を高めることを目的に開発されるわけだけど、ゴールデン街の飲み屋のように属人的でスケールの小さい仕事においては必要性の希薄なものばかりだ。そんな街でお金を稼ぎながら楽しく生きている人たちを間近にし続けていたら、システムエンジニアとして働く自分が生きている世界とのギャップを感じて、労働意欲が失われてしまった。「インドに行ったら人生観が変わった!」なんて物言いが流行った時代があったが、僕の場合は「ゴールデン街に行ったら人生観が変わった!」になってしまったのである。

というわけで、週に1回店番をするだけの定職なし30歳の人生が始まってしまった。ちなみに『ゴールデン街』という街の名前の”ゴールデン”とは金貨(硬貨)のことで、札束を稼ぐ銀座に対して小銭を稼ぐ街、という思いが込められているそうだ。生活の足しにもならない小銭を稼ぐだけの人生になってしまった僕は、ゴールデン街という街がその始まりから胚胎していた価値観にいつの間にか取り込まれてしまったのかもしれない。

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いざ1人で店番に立ってみて面白いと思ったのは、こんなにもありのままの自分を出してしまっていい仕事があるのか、ということだった。

僕は昔、某カレーチェーン店でバイトをしていた。やたらと接客に力を入れている店に入ってしまい、客に掛ける言葉というものも厳格に決まっていた。お客さんが入ってきたら「いらっしゃいませ、空いてるお席どうぞ」と超絶な笑顔で言わなければならなかったし、宅配に向かうときは「安全運転で行ってきます!」と叫ばなければならなかった。僕は決められた表情や言葉を遂行するのが苦手で、定型句を口にしようとする時は言葉が口から出てこなくなってしまったり吃ったりしてしまうことが多々あった。効率性を追求するために人間が作り出した画一的なルールによって無理に表情をつくったり言いたくないことを言わなければならなくなることが大半の労働にはあるわけだけど、ゴールデン街のような小さな店で1人でする店番にはそんな画一的なルールは存在せず、その代わりに自分の感情や好き嫌いがルールのようになってしまう。

その証拠に、同じ店でも店番の人によってお客さんが全然変わってしまう。僕の場合は、あんまり声がでかい人は苦手。他の人が周りにいる中でホモソノリをいかんなく発揮する人が苦手。周りで飲んでる人のことを急に攻撃したりバカにするようなことを言う人も苦手。頭でっかちな人よりも自分の感情を自分の言葉で話せる人が好き。かっこつけずに素直に生きてる人のことが好き。他人を雑に口説くのはよくないけど、ちゃんと口説くのは飲みの場だからやってもいいと思ってるし、他人を無理強いしなければ性的な話もどんどんすればいいと思ってる。

そんな自分の中の好き嫌いをわざわざお客さんに言葉で伝えることはないけど、苦手な人が来たときは、その人の話を積極的に拾わないようにしたり、適当に相槌を打ったり、目を合わせないようにしたり、洗い物を始めたりする。好きな人が来た時は、笑顔が多くなるし、積極的に話を拾うし、自分からも話を振るし、帰ろうとするときにはごねたりもする。そんな風に陰に陽にこちらが発してしまうメタメッセージによって、自分が店番の時に来てくれるお客さんの傾向というのはどうしても偏っていく。

僕が店番している時は、シャイで比較的静かに飲む男の人と、オープンに性の話をする女の人が多く来るようになった。僕に会いに来てくれた素人童貞の男の子が隣に座った女性に「私でどう?」と誘われてホテルに行って素人童貞を卒業した状態で店に戻ってきた日もあったくらいだ。と言っても、あくまでそういう傾向になるということで、深夜の飲み屋だからうるさい人がいることは全然あるし、店の中にホモソ乗りが好きな人だけになった時は存分にホモソ乗りを楽しんでもらってもいる。

そんなこんなで4か月くらい働いていたら、金曜深夜の店の雰囲気がどんどん変わり、僕が働き始めた頃に店に来ていた常連さんは誰も来なくなってしまった。中澤雄介くんからは「お前が店番に入ってから店に性の匂いがするようになったって言われてるぞ」と言われたし、常連のお客さんから「なんか最近やばい女が増えた」とも言われた。

初めの方は常連の人の姿が消えてしまったことに少し罪悪感を感じていたけど、他の曜日の日に店に飲みに行くと、消えたと思ってた人たちが普通に飲んでいるので安心した。自分が店番のときに居心地が悪かった人は、他の店番の人の日か、他の店で飲むだけなのだから、たった週に1回の店番の人間が気負いすぎる必要はないのだと思った。つまらなそうに帰っていくお客さんは引き止めようとしないで「行ってらっしゃい」と送り出せばいいのだ。いい言葉だ。「行ってらっしゃい」は。他の曜日の店番の人や、他の店、つまり、自分ではない誰かや、自分には見えていない時間や空間に対する信頼が「行ってらっしゃい」という言葉には含まれている。自分が見えている世界を絶対だと思わない。全てを自分でどうにかしようと思わない。「行ってらっしゃい」は、今自分の目の前に見えている世界への執着を手放す言葉でもある。最高の言葉だ。積極的に使っていこう。行ってらっしゃ~い!

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山下素童

1992年生まれ。現在は無職。著書に『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』『彼女が僕としたセックスは動画の中と完全に同じだった』。

Twitter@sirotodotei

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