2020.4.20
第2回 小さなナポリ、大きなトマト
料理心を刺激され、感動が新鮮なうちに家でも作ってみた。
湯むきしたトマトを皿の真ん中に置き、レタスの繊維を指先で感じ取りながら丁寧にちぎる。ここから先は自分流。パルミジャーノ・レッジャーノで塩気を、アンチョビでコクを足す。色を担うのは、ラディッシュときゅうり。盛り付けは、あまり計算しないで指に任せる。心地よい配置になるよう、トマトがもつ求心力が導いてくれるからだ。ざるに残ったトマトの皮をかじってみれば、昆布に似たあと味に驚き、花びらのように散らしてみる。最後にくるみで歯ごたえを足し、おいしい塩をほんの少しと、青く香るオリーブオイルをひと回し。最終的な味付けは、噛むことで口内で完成させる。
味というものは、探そうとする人にだけ姿を見せると知ったのは、ここ数年のことだ。年齢とともに鈍くなっていく味覚をやさしく起こすレシピを、体がどうしようもなく欲することがある。ドレッシングのないこのサラダは、その大切なレパートリーとして育っていくだろう。味を探しながら噛む楽しさを、野菜の厚みに刃を差し込む指先の喜びを、あの小さな店のトマトが鮮やかな姿で示してくれた。
鮮やかなシーンといえば、もうひとつ。 彼女が語ったエピソードのなかに、今でも胸に焼き付いて離れない光景がある。
アーティストとして生きていく覚悟を決めたある1か月の出来事を、彼女は言葉で詳細に描いてくれた。それは壮絶な孤独と苦しみであると同時に、選ばれし才能を貫いた矢の強烈なまぶしさで、私を圧倒した。
彼女と同じ時代を生きているということが、私の心を照らしている。それは例えば、うつむいて皿を洗う夜に、顔を上げなさいと励ましてくれる力。遠くで輝き続ける太陽に、私は畏敬とともに今も恋をしている。