よみタイ

いつも鏡を見てる

一流企業のマーケティング部長がタクシー運転手に転職した本当の理由とは?

大きな溜め息

 初めての客は、ドン・キホーテを越えた先に立っていた。黒いビジネスバッグを手にしたスーツ姿の中年男で、彼は、乗り込むなり、山中が定型の挨拶「ありがとうございます。私、大和交通グループの……」を言いよどんでいるうちに「池袋駅の北口まで」と早口で目的地を告げ終えていた。「ふたつ目の信号をUターンするようにして平和通りに」と豊田が道順を口にした。目的の場所までは五分とかからずに着いているが、山中にはそれが途方もなく長い時間に感じられた。料金710円を受け取り、「ありがとうございました」と言い終えて自動ドアのレバーを下げたとたん、緊張から解き放たれて「ふ~ッ」と溜め息が声になってでた。こめかみを流れる汗を感じてハンカチを握った。汗がふきだしているのは、目的地の手前の信号で止まったときに気がついていた。平和通りは朝の早い時間は車両通行止めだとかなんとか、豊田が話す声は耳に届かず通りすぎていく。「ふ~ッ」と、また大きな溜め息が声になってでた。

「緊張するよな。最初は誰だってがちがちになるんだよ」

 山中の緊張や焦りはすべてお見通しとばかりに豊田は静かに言い、助手席のドアを開けて車外にでた。腰に手を当て、ラジオ体操のように上体を反らせ、しばらくその姿勢を続けてから、顔をしかめ「横に乗って同じ姿勢でいるのは辛いな」と言うのだった。「次の信号を右折だ」と、指導係の口調に戻ったのはそれからである。

 豊田に指示されるまま再び川越街道を走りだし、山中が運転する営業車が都心に向かう。相変わらず客の姿を探しだすのは難しかったが、東京ドームシティの前から神保町までの、ワンメーターの客をもういちど乗せ、それから飯田橋駅を目指した。

 JR飯田橋駅は、地下鉄の3路線が乗り入れていることもあって乗降者は多く、なかでも東口は、地下鉄・東西線の出入り口が重なり人の流れが忙しい。このタクシー乗り場に白線で引いた客待ち空車のための枠は3台分しかないが、そんな決まりごとなどお構いなしに、付け待ちの空車が昼夜を問わず長い列を作るのはいつも見かける光景なのだという。そして、空車の列がなかなか前に進まないのもいつもの光景なのだという。

「30分待ちだな」と豊田が声にだし、聞いた山中修は黙って頷いた。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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