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いつも鏡を見てる

「タクシーは鏡みたいなものだ」ベテラン運転手から見える日本の姿

タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)

前回は、一流企業の部長からタクシードライバーに転身した男の物語でした。
今回は、バブル期に運転手になり、今やベテランの磯部健一が登場します。

いつも鏡を見てる 第21話

鏡 2013年4月10日

 オレンジ色の回送表示を点けたタクシーが、夜の終わりと朝の始まりの隙間をうまい具合に縫うようにして帰庫してくる。

 タクシー会社にしては広くない敷地に営業車を洗うスペースは横一列に5台分しかなく、道路際とそのとなり、2台分が洗い屋の定位置なのはいつの間にかできあがった暗黙のうちの決まりごとである。そもそもと辿れば、洗い屋は免停で仕事にでられなくなった運転手が現金収入を得る手だてとして始めた副業なのだけれど、北光自動車には、現役の運転手でありながら、本職を早めに切りあげて、あるいは公休日に会社にやってきて洗車に精をだす4、5人がいる。1台洗って1000円。ときには日に10台も洗う猛者もいて、彼の場合は、タクシー運転手としての稼ぎは人並みに遠くおよばないが、それと同じくらいの金を洗車で稼いでしまうのだから、こうなると、どっちが本業だか副業だか本人ですらわからないかもしれない。道路際のそこで、専用の石鹸をつけた洗車ブラシを小器用に使ってタイヤを洗っているのは、まさに、その張本人である。あと1時間もすれば、隔勤やナイトの仕事を終えた連中が、朝に追い立てられるようにして10分と間を置くことなく戻ってくる。今日の洗い屋は二人しかいないから彼が受け持つのは半分として、7時か、遅くとも8時までにはぜんぶやっつけたい。黙々と洗車ブラシを使う手が、いつもより忙しく雑に動いているのはそれが理由だろう。

 磯辺健一は、その日の最後の仕事を洗車屋に任さず、自分で営業車を掃除する運転手のひとりである。古きよき時代を経験している運転手は、営業を終えて帰庫したら、相番への礼儀として洗車をするのが当たり前と先輩から教え込まれてきた。私にも覚えがある。どんなに大雨が降っていようが帰庫したら雨で汚れた車体を水洗い。ひとたび車庫をでたら雨に打たれるのに、それでもぎゅっと絞った雑巾での拭き取りが、いかに不合理でも鉄の掟だった。その習慣がいまも抜けない。磯辺が洗い屋を頼らないのもそういう理由からだと、聞かずともわかる。

 いつもの磯部健一なら要領よく営業車の掃除を済ませさっさと帰宅している時間だが、どうしたわけか途中で洗車を放りだし、自販機の横の灰皿を挟んで、いつもどおり洗い屋に最後の仕事を投げた豊田康則と話し込んでいた。営業を終えて戻り、あとは売上げの入金と洗車を済ませれば一日の仕事は完了だが、ダッシュボードの上に1000円を置いて、最後の仕事のひとつを洗い屋にまる投げする運転手は多く、ナイト仕事を終えたばかりで脊柱管狭窄症の大手術でも治らなかった腰の痛みが3割増の豊田は、いつだってそうしている。洗い屋の誰かに声をかけておきさえすれば、フロアマットもタイヤも窓ガラスも、ひと通りきれいに仕上げ、終われば、決まった場所に移動しておいてくれるという手はずになっているのだ。

「ドアミラーってのはタクシーには向かないね。やりにくくってしょうがない」

 磯辺健一は、私の顔を見るなりそう言った。てっきり千葉県のどこぞの漁港から釣り舟で沖にでた日の釣果を披露するものだと決めてかかっていたものだから、少しばかり拍子抜けのひと言だった。彼の釣り好きは高校生だったころの川釣りからだというが、21歳でタクシー運転手になって、いったんは釣り断ちをしていた。早く一人前の稼げる運転手になるのが先決だとの理由からだった。それが復活したのは30歳を過ぎてからだと聞いたが、月に2度3度と千葉の漁港に通い詰めるようなったのは、子どもたちが独立し、タクシー運転手として必死に稼がなければならない事情が消えたここ数年のことである。洗車をすませた磯辺の口から、「これから千葉だ」や「きのうは鯛が」と聞くのはしょっちゅうだが、磯辺と豊田が話し込んでいたこの日のお題は、磯辺がまだ3乗務しかしていない新車のセドリックについてだった。どこのタクシー会社でも黒塗り(=ハイグレード車)の数は保有車両のうちの一部だけと割合が決まっていて、北光のそれは、39台のうちの5台。担当する運転手はベテランのエリートドライバーというのが相場だが、北光では、ベテランのうるさがたにおまかせで、磯辺がその1台に乗っている。つい最近、彼が乗る黒塗りが代替えで新車になった。来年の秋には生産終了が決まっているタクシー仕様のニッサン・セドリック。グレードはクラシックSVで、オリジナル、カスタム、スーパーカスタム、クラシックSVとある4グレードのうちの最高ランクである。2012年型だが、ここにきてのマイナーチェンジで、サイドミラーが、フェンダーミラーからドアミラーに変更されていた。納車されてきた新しいセドリックを見て、これはだめだろ、と思った。営業車にドアミラーなんてと昔気質の運転手なら誰しも思う。ミラーの位置が少し後ろに下り、「前」の「下」に見える範囲がわずかに消えたところで運転に支障がでるわけでもないが、タクシー運転手の感覚は、無意識に、フェンダーミラーを照準器のような、重石のような、あって当たり前の安心感の象徴と捉えている。それがなくなったのだから違和感は強く、タクシー運転手としての経験が長いほどそう感じるようで、磯辺健一は「やりにくくってしょうがない」のである。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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