2021.12.15
エリート会社員からタクシー運転手に転職した男の大失敗
採用の決め手は「呼吸が合うか」
履歴書にびっしり記された山中修の経歴は、彼の採用を北光自動車交通の3代目、武藤雅孝に決めさせるのに十分だった。けれど、決定打となったのはそこではなく、武藤の勘だった。「この男は採用」と働いた勘だった。
武藤雅孝がベース奏者としてもっぱらR&Bにのめり込みだしたのは大阪芸術大学の音楽学科に籍を置いていたころだというから、さすがにロバート・ジョンソンは引き合いにださないにしても、ブルースマンとしての彼の年季はずいぶん入っていたわけである。その彼には、大学卒業後の身の振り方に迷った時期がある。セミプロであるうちは「天才」と呼ばれるミュージシャンが地方都市には必ずいるものだけれど、いざ、プロを目指すや、東京には、その手の天才がごろごろ転がっている。それがわかっているだけに、「音楽で飯を食っていく難しさ」と「音楽で飯を食っていきたい」との大それた願いの狭間で気持ちは揺れ動いたのだ。プロのバンドメンバーを募るオーディションに参加する機会を得たのは、ちょうどそんなとき、卒業が間近に迫っていたころである。『メリー・ジェーン』をロングヒットさせたミュージシャン、つのだ☆ひろのバックバンドのオーディションだった。これで認められなければプロになるのは諦める。武藤は、その一発勝負に賭け、そして合格した。けれど、彼の、ミュージシャンとして不遇ではない日々は10年足らずで終わっていた。契約問題という、音楽家としての才能とは無縁の、しかし、プロゆえにつきまとういざこざに嫌気がさした末に、自ら下した、ずいぶん早い音楽業界からの引退だった。父親が2代目を継いだタクシー会社、北光自動車交通に入社して運転手として働きだすのは、それから間もなくだった。日本経済がリーマンショックの波をもろに被る直前、豊田康則が省東自動車から北光に移ってくる1年半前、2008年のことである。サブプライムローン問題がタクシー運転手の稼ぎに暗雲をもたらし、落ち込み続ける日車営収の底が見えないタクシー業界だった。大手、中堅どろこなら薄利多売で状況を乗り越えるのも可能だけれど、老舗とはいえ抱える営業車が39台の小所帯では、先行きがいかにも心細い。なんでうちの会社はこんなにタクシーの数が少ないんだ。これでいいわけがない。ひとりのタクシー運転手として、武藤雅孝が抱いた素朴な疑問だった。彼が、3代目として北光自動車交通を背負っていこうと決めたのはそのときである。事業の拡大を目指す彼が手がけた最初の一歩は良質な運転手の確保からだったが、はじめのうちはミュージシャン時代の勘に頼った。バンドの音楽はいくつもの楽器の調和で成り立ち、それに必要なのは、メンバー間の阿吽の呼吸である。呼吸を読む要領で運転手の面接に臨んだ。呼吸が合えば、その場で採用を決めた。面接の時点で豊田康則の採用を即決したのも、私を即決したのも、そして山中を即決したのも、あのころは、ほとんど、呼吸を読む要領と勘が決め手だった。
一流企業に長く籍を置いていたこと、マーケティングに精通していること、部長職にあって多くの部下を率いたことなどが山中修の履歴書には羅列してあり、セールスポイントと志望動機の欄には「管理や人材活用などマネジメントにおいても、根気強く取り組んできた経験があり、御社の目標達成に貢献できるものと確信しております」とあった。山中は、趣味の欄に、野球観戦と登山のほかに「ドライブ」と書いている。繊維会社に勤務していた時期に購入した2007年型のBMW320iのオドメーターは、サンデードライバーの典型が走らせているだけのことはあって、4年経ったいまも30000キロに達していない。「運転は得意」と大いばりできない自覚はちゃんとあるが、タクシー会社に提出する履歴書なのだから、趣味欄には「ドライブ」と書き入れるべきと考えたのだった。余白がまるでない山中修のそれは、この三年のうちに武藤が受け取った履歴書のなかで、必要事項をもっとも詳細に記したものだった。その詳細さは、一流企業の第一線で働いてきたというプライドの表れなのかもしれないと思った。しかし、それはタクシー仕事の邪魔になるかもしれないとの少しの心配につながるわけだけれど、同時に、その詳細さは、ただ単に、山中の生真面目な性格を表しているだけなのかもしれないとも思う。武藤雅孝は、履歴書の意味を後者だと好意的に受け取ることにして山中の採用を決め、面接の場で本人に伝えている。2011年11月のことだ。