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気になる女性が男と自分のタクシーに乗りホテル街へ向かう──新米タクシー運転手の苦い体験

急変する男の態度

「まだ一二月にもなってへんのに雪でも降るんとちゃいますの」と、数日来の寒さを口にしたその男が「山村が」と始めたのは、東山三条の交差点で市電の軌道敷をがたがたと踏んだときだった。みやびさんが見せた困り顔が、脳裏から消えた。

 また山村の話かよ。ここ一か月ばかり、深夜の酔客ときたらタクシーに乗るなり決まって「山村」と「滋賀銀行」を口にし、そうでなければトイレットペーパー問題だ。

 銀行の預金係だった山村彩香が預金伝票の偽造を繰り返し、6年間にわたって4億8000万円をだまし取った滋賀銀行事件*3。その金のほとんどを年下の男に貢いでいたらしいが、相手の男というのは京都市内のタクシー運転手で歳は25。ご丁寧に山村が勤務していたのが山科支店だったものだから、酔客たちは、自分が乗ったタクシーが山科のクルマで、しかも貢がれ男と同年代の若いタクシー運転手と知るや「山村彩香、捕まったんやなぁ」と始まるわけである。

「山村みたいの、いてはらへんの」

「いたらタクシー運転手なんてやってませんよ」

 ここのところ、似たような会話を何べんも繰り返している。山村彩香が大阪で捕まったのが10月21日。あれから一か月近くも経つというのに、いかにもスキャンダラスな事件だったせいかいつまでも続報が流れ、そのたびに客の側は気の利いた冗談のつもりか同じことを言い、言われた俺は面倒くさそうに同じ言葉を返していた。

「あのタクシー運転手、どこの会社やったかいな」

「さぁ、わかりません」

 いつもどおり「わかりません」と答えたが、本当は知っていた。噓かまことか、貢がれ男が八光タクシーの運転手だったというのは仲間うちでは有名な話だ。

「山村、大阪で安アパートに潜伏しとったらしいやないですか。新聞にでとったけど、わかっとるだけで4億8000万円で、ほかにもあるかもしれへんて……」

 どう見たって運転手の方がはるかに年下なのに、男の言葉づかいは年長者に対するそれのように丁寧で、しかも、ずいぶん親しげに話し続けた。そして、とにかくお喋りな男だった。

「今日は、ようけ水揚げやらはった?」

「いや、いつもと変わりませんよ」

「運転手さんはジプシーしはらへんのですか」

 しばらく前の京都新聞・夕刊が、20万円ほどになる失業保険の就職支度金*4を目当てに半年ごとにタクシー会社を転々とする運転手を「ジプシー」と書いたことがある。うちの会社にも何人かいるらしいが、というか、谷津さんもジプシー運転手のひとりだと当の本人から聞いた。男は、俺も支度金目当てに会社を移るのかと尋ねたのだ。

「いや、俺はいまの会社から動くつもりはないです」

 そう答えると、それまで身を乗りだすような格好で喋っていた男は「ふ~ん」とつまらなそうに返し、後ろに倒れ込むような勢いでシートにもたれかかったと思ったら、急にぶっきらぼうな口調になって「四宮の信号、右や」と指示した。三条大橋で乗り込んだとき、確か「四宮の信号の少し先」と言ったはずだがとは思ったけれど、黙ったまま頷いた。

 ちょっと前までなら、山科の端や滋賀県へ客を運んだ戻りの空車が赤ランプを光らせてひっきりなしに三条通りを走っているのが当たり前だったのに、そもそも客がいないのか、タクシーが早仕舞いしたせいか、それともその両方なのか考えたこともないが、とにかく、すれ違うタクシーが数えるほどしかいない。九条山を越え山科に入ってから、日ノ岡と御陵みさざきの間あたりで三~四台の空車とはすれ違ったけれど、山科駅入口の信号、外環三条の交差点を過ぎるとその先は真っ暗で、対向車がただの一台もやってこないのだとわかった。

 四宮の交差点を右に曲がると「次、左や」と男の口調は少しばかり強くなり、必要以上には喋らない俺に不満なのか、丁寧だった喋り方が男の口から消えた。

「返事はせぇへんのか、運ちゃん」

 俺の生返事のせいで機嫌を悪くし「運転手さん」が「運ちゃん」になったのかもしれないが、関西では「運ちゃん」呼ばわりは珍しくもないから最初のうちは気にもしなかった。ところが、どうも様子がおかしい。

「運ちゃん、何で黙っとるんや。何とか言えや」

「しばくぞ、こらッ」

 言われた瞬間、反射的に「つッ」と俺は舌打ちし、それが聞こえてしまったのかどうかわからないが、男が明らかに攻撃的な言葉を口にするようになったのはそれからだ。関西の男が凄むときの常套句が始まった。

「なめとんのか、こらッ」

 名神高速道路の京都東インターをでて直進すると道は国道一号線の三条通りとなり、直進せず左にカーブすれば国道一号線、五条バイパスへと入っていく。大津方面からくる国道一号線は、ここで三条通りと五条バイパスに分かれるのだ。男は、その五条バイパスの下を抜ける狭いトンネルを過ぎたとたん、「右やッ」「左やッ」と、ますます語調を強めて道順を指示し、俺はといえば、かなり雲行きが怪しくなってきた客の態度に面食らっていた。

 まずいな、これ……。

「次の角、左やッ」

 ということは、男の行き先は小山こやま

 うちの会社の目の前には、名神高速道路を挟んだ向こう側にどっしりとした山容の、逢坂関と同じく歌に詠まれた音羽山が迫っている。名古屋方面からくる新幹線は、大津を過ぎるとすぐに県境のトンネルに入っていくが、そこが音羽山で、トンネルを抜ければ三方を山に囲まれた京都市東山区の、うちの会社がある山科*5である。といっても、高さはせいぜい200メートル前後で比叡山どころか標高466メートルの大文字山と比べてもずいぶん低い山々だけれど、会社の目の前の音羽山だけは600メートル近い高さで、しかも、どっしり感があって、さすが、と感じさせる。真冬になると、早朝はいつもてっぺんのあたりに濃い灰色の雲がかかっていて、たとえ真上の空に雲がなくたって音羽山からの雪が舞っている。そして、そこから延びる尾根と尾根の間にできた扇状地のような形をしたのが山科の小山地区で、主に農家らしい百軒ほどの民家があるのだけれど、緩い登り勾配を進むにつれて数は極端に少なくなっていく。男の目的地は、どうやらそのあたりらしい。

 民家の灯なんてどこにも点いていない時間帯、家屋が建ってないところはほとんどすべて畑で、街灯のひとつもないものだから辺りは真っ暗闇だ。すると突然、男は運転席のシートをガンッと何度も蹴り上げ、そのたびに「なめとんのか、こらッ」を繰り返した。

 しまった、と思った。

 こいつ、まともじゃない。

「運ちゃん、このまま黙っとって済む思うとるんちゃうやろな」

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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