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気になる女性が男と自分のタクシーに乗りホテル街へ向かう──新米タクシー運転手の苦い体験

「運ちゃん、わしは客やぞ。態度が悪いんとちゃうか」

「なんとか言えや、運ちゃん」

 しまった、と思ったが、遅かった。三条通りでさえ空車の一台すら走っていないのだから、こんな寂しいところを、こんな真夜中に走っているクルマなんているはずもなく、屋根の行灯あんどんに緊急事態を知らせる赤灯を点滅させたところで誰も見てくれる人はいない。

 心臓がバクバクしてきた。

「ほんまに金ないんか。あるんやろッ」

 タクシー強盗?!

 タクシー強盗がニュースになるのは珍しくないし、だから運転手たちは、もちろん俺も含めて、それなりの心構えがある。なんだか怪しいと感じたら身構え、運転しながら〝事前〟に対応策をシミュレーションをするものなのだ。いつだったか、京都新聞に「タクシー強盗の犯人は三人の中学生だった」という記事があって、何で中学生ごときにやられちまうんだよと呆れたが、記事を読んでみて納得した。三人が揃って傘の先を運転手の首に押し当て「金をだせ」と迫ったというのだ。そんなことされたら誰だって為す術はないだろう。けれど、相手がひとりで、しかも、不意を突かれる状況でなければどうにかなるかもしれない。だから身構える。サンダル履きで仕事をしている運転手は、信号待ちを利用してさり気なく靴に履き替え、うちの会社にひとりだけいる女の運転手は、運転席の下にテープで貼りつけたナイフの位置を、右手を伸ばして確認するのだと言った。サンダルから靴に履き替えるのは谷津さんや俺も同様で(谷津さんは足もとに大きなマイナスドライバーを護身用に置いている)、相手がこうきたら、こうやって、と、いくつかのパターンを想定したりもする。ところが、このときの相手は、なりたてタクシー運転手である俺なんかのはるか上手をいっていた。

 丁寧で親しげな喋り口調は、どうやら俺を油断させるための手だったようだ。だから俺は万が一に備えてのシミュレーションをしていない。男は、うまいこと真っ暗な田舎道にタクシーを誘い込み、一方の俺は、誘い込まれたことにも気づかないうちに男が豹変したものだから、心の準備がまったくないまま事態の急変にどう対処していいのやらわからずに、ただ慌てふためいている。

 男は、そんな運転手の心理はお見通しとばかりシートをガンッと蹴り上げ、「こら、何とか言わんかい」と畳みかけてくる。

「運ちゃん、わしは客やぞ。態度が悪いんとちゃうか」

「すんませんでは済まへんぞッ」

 思い返してみれば、三条大橋から外環三条の交差点まで喋り続けたこの男の話題は、どれも金がらみだった。あれは値踏みだったということか。

 だとしたら、おかしい。

 水揚げはたいしたことないとわかっていて、金も持ってなさそうな俺を相手にタクシー強盗なんて考えないはずだ。かといって、俺の態度が気に入らなくて、ただ文句を並べているだけとはとうてい思えない。それなら目的は何なんだ。この場を切り抜ける対応策を考えなくちゃ。それはわかっているけれども気持ちは焦るばかりで、そのくせ、俺の頭は、まずいことになっている状況を切り抜けるのに何の役にも立たない、男の行動分析を妙に冷静にしていた。

 胸が痛くなるほど心臓がバクバクしていた。バクバクが行き場をなくすほど大きくなっている。不用意に口を開けようものなら、脱兎のごとくバクバクが飛び出してきて夜明け前の洗車に苦労させられてしまいそうだ。ところがその一方には、想像もしたことがなかったが、運転手稼業の道に入って半年も経たないうちに、こんな目に遭ってしまう運の悪さを笑いそうになっている自分がいるのである。

 四宮の信号を右折して小山に至る道をよく知っているということは、この男、小山の住人なのだろうか。

 いや、地元でこんな行動をとるはずがない。

 こいつ、もしかして同業者なのか。

 そうだ、同業者だ。

 刃物はどうなんだ。持っているのか。

 建ち並ぶ民家がまばらになってきて、ずっと先の方に灯がついている家がぽつんと一軒だけ見えた。その手前も、その先も真っ暗闇だから、あたりは一面の畑ということになる。このまま山奥に進んでしまったらまずい。もう、これ以上、自分に不利な状況を作ってしまうわけにはいかない。

 どうする。

 どうしたらいい。

 もしかして、狙いは金じゃないのかも。ふッ、と、そんな思いが浮かんだ。金は取れないと踏んで、それならば、と、乗り逃げを決め込んだとも考えられる。もし、そうなら……。まてよ、もし、そうじゃなかったら、やっぱり金かなのか。

 いや、そんなこと考えている場合じゃない。どうだっていい。どうするか早く決めなくちゃ。そうだ、次の曲がり角で一時停止したとき、そこで勝負を賭けよう。そうしないと行き先は山奥になっちまう。運転席を飛びだして、自動ドアのレバーを引っ張る。後ろのドアを開けたら、それで男がどう行動するか、だ。

 それだ。

 アクセルをグッと踏み込む。男の身体がシートの背もたれに倒れかかった。こんどは急ブレーキを踏んだ。

 クルマが止まると同時に、俺は運転席のドアを開け飛びだすようにして外にでた。そして自動ドアのレバーを引いて後ろのドアを開けた。このとき、やっぱりサンダル履きはまずいと思った。

 男と俺の視線が合った。やつは目を見開いたまま忙しく顔を動かし、右を見たり左を見たり、そしてまた俺を見て、どう対応していいのか判断できずに慌てているようだった。男が勢いよくクルマから降りた。

 こいつ、どうする気だ?!

その二日後……

「女の人からあんたに電話があったで。まだ出社してまへん言うたら、またかける、て。名前言わんと切らはった。なんや、あんたのクルマに乗った客や言うとったな」

 俺の顔を見るなり事務所の向井さんがそう言ったのは、あの夜の出来事から二日後の夕方だった。

(以下、次回に続く)

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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