2026.4.22
なぜ「効率の悪い旅行」を「失敗」だと思ってしまうのか?【こんな質問が来る 第7回】
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盛り上がる土産話は、現地でひどい目に遭った話
たとえば旅のあと、「どうだった?」と聞かれたときに、「全部予定通り回れたよ」とだけ答える人がいたとする。このような場合、その人の中では完璧な旅行をしたつもりなのかもしれないが、旅行というものは完璧に進めば進むほど「撮れ高」はない。「綺麗だったよ」「おいしかったよ」と一問一答のような応答以上に会話が発展しないのだ。なぜなら「完璧な旅行」とは、失敗もなければ、冒険もなく、発見もない。結局、すでにSNSやメディアでみんなが知っている情報の答え合わせに終始してしまうからである。とくに他者に語るべき自分だけの固有の体験が得られないのである。
一方で、「いや、ちょっと聞いてよ。いきなり空港でさ……」と語り始める人は、誰かに語るべき自分だけの体験つまり、「話のネタ」を山ほど抱えて帰ってきたということである。
「この体験は話のネタにできるかどうか」というものさしを自分の中に持っているかどうかは、旅の不確実性を楽しめるかどうかに大きく関わってくる。
前者にとって重要なのは、どれだけ計画を取りこぼさずに実行できたかであり、その評価は基本的に個人の内部で完結している。僕が「経験が閉じている」と呼んでいるのは、このようなあり方である。これに対して後者にとっては、その経験がどのように語られ、どのように他者に受け取られるかが、最初から旅の一部になっている。どんな失敗をしても、心のどこかで「おいしい」と思える人間はどんな旅に送り出しても、結局、楽しんで帰ってくるものだ。一緒に旅に出るなら、こんなに頼もしい人はいない。一緒に仕事したいかはさておき。
たとえば、僕が旅行中もよくSNSで実況的に投稿する様子を見て、「旅行中くらい旅に集中すればいいのに」と呆れる人がいる。そんなとき、僕はいつも、何を言うか、そんな人より僕の方がずっと正統派だぞと言い返している。『奥の細道』を見ろ。あのおっさん旅先でずっと実況しとるやないか、と思う。しかも五・七・五の短文ポスト。手練れのツイ廃である。
そもそも人間にとって旅とは、巡礼にせよ留学にせよ、広い外の世界で出会った見聞を持ち帰って共同体に共有するために行うものだった。そのために人々は資金を出し合って村の若者などを旅に送り出していたのだ。つまり芭蕉のように、旅は古くから「語ること」とセットの営みなのだ。
だから、人間にとって旅の経験とは個人の中だけで完結するものではなく、その経験を他者と共有することで完成するものと言えるかもしれない。そのような意味で、旅先でSNSに写真を上げ続ける人々などは実に正統派の旅人だと僕は思っている。現代の芭蕉は彼らだろう。
そして、何年たってもあなたと友人や家族のあいだで「鉄板」となっている旅行体験談を思い出してみてほしい。それはきっと美味しい食事や寝心地がよかったベッドの思い出ではないだろう。失敗談や苦労話、そしてそれらと格闘した冒険譚だったりするのではないだろうか。その理由はいうまでもなく、そこで遭遇した不確実性こそが旅のメインディッシュだからである。
まあ、誰も他人の自慢話なんて聞きたくもないので、結局盛り上がる土産話は現地でひどい目に遭った話になるわけだが。
いずれにせよ、土産話もない旅に意味はない。旅の恥はかきすてというが、旅を楽しむ人たちは旅の恥こそ大切に磨きながら持ち帰るものである。そして、時には家族や友人たちに、そして時にはSNSで、その持ち帰った宝を披露するのである。
だから「ここも行けなかった」「これもできなかった」と事前につくった行程表と比べながら旅行の思い出を減点法で採点するなんて、とんでもない。旅行の宝は不確実性である。どれだけ思いもしなかった場面と出会えたか。旅は「どんなに失敗したっていい」というものではない。失敗のない旅こそ、失敗なのだ。だから旅の失敗は、安心して楽しめばいい。
そういえば、写真家・星野道夫の有名な言葉がある。
「大切なことは、出発することだった」
もし旅立つことができたなら、どんな旅もあなたの旅なのである。
次回連載第8回は5/27(水)公開予定です。
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