2026.6.5
カレーを語る者の横顔は、メロい。──文筆家ひらりさが読む『教養としてのカレー』
今回、文筆家・ひらりささんに、本書の書評をご寄稿いただきました。

「カレー」に対する固定観念を刷新していく
この記事を読み始めたみなさん。
きっと、カレーが好きな方たちなのではないかと思います。
もし「別に好きじゃない」のに開いてしまったのだとしたら、それはそれでカレーのことが気になって仕方がないということでしょう。
では。今あなたの頭の中にはどんな「カレー」が浮かんでいるでしょうか。
実家で出されていた、市販のルーに、にんじんとじゃがいもがゴロゴロ入ったカレーライス?
タイ料理屋で出される、ココナッツミルクをベースにコリアンダーの効かせたグリーンカレー?
ルウを使わず自由にスパイスを調合して作られる、近年おおいに盛り上がっているスパイスカレー?
それとも……「スパイスの効いた汁状の食べ物」はすべてカレーである可能性を考えてしまう、カレー過激派でしょうか。
大多数の人が食べたことがあるに違いない国民的料理なのに、イメージが拡散している。まるで蜃気楼のような存在です。
カレーってなんなんだ?
頭の中にそんな問いが、ほんのり浮かびませんでしたか?
あなたにぜひお勧めしたいのが、本書『教養としてのカレー』です。
著者・清水侑季は、日夜カレーについて考え、ソニー株式会社を辞めて、京都大学大学院での現代インド料理研究に足を踏み入れた、大のカレー過激派。
これはもう「カレーとは何か」をしっかりと教えてくれるに違いない。
そう思って、ページをめくると……その期待は良い意味で裏切られます。
だって、第1章が「カレーを定義しない」!
「しない」んかーい!
誤解を招かないように補足すると、著者は、定義を諦めているわけではありません。いかに日本におけるカレーの概念が茫漠としたものかを手厚い知識と共に解説した上で、ゼロかイチかで「カレー」について考えることを捨てよう、と提案します。それが本書の大前提です。
このように、はっきりと言語化されてはいないものの、ファジーな「カレー感覚」は共有されています。線引きし、定義することが本書の目的ではありません。本書ではむしろ、「ファジーで曖昧なもの(=遊び)」としてカレーを引き受けつつ、私たちが一体どこにカレーらしさを見つけ、感じているのかを考えていきます。(『教養としてのカレー』p.18)
カレーをはっきりと定義することはしません。カレーかどうか、という白黒分類、二項対立は一旦やめてみましょう。(『教養としてのカレー』p.4)
そもそも「curry」は、バラエティに富んだ文化的背景と内容を持つインド料理全般を、植民地支配した西洋国側が過度に単純化してラベリングしたという、植民地的背景を持つ言葉でもあります。それゆえに「カレー否定論」なるものも存在するのだとか。
本書はしかし、「正しさ」という枠組みにカレーを押し込めるものではありません。そこからいかに「イギリス料理」としてのカレーが生まれたか。さらにどのように日本に伝わって、「日本の家庭料理」としてのカレーが生まれたか……。政治に翻弄されながら複雑な文化的変遷と拡散を遂げて世界に広がったカレーについて紐解きつつ、人々の感覚の中に染み込んだ「カレー」に対するそれぞれの固定観念を刷新していく、という構成です。
「教養」という言葉には、どこかパッケージされた知識をツールとして与えてもらえるような印象があります。しかし、この本は決してそのような単純な本ではありません。「教養」になる知識をひと通り整理した上で、読者一人ひとりの頭の中にある「カレー」をすっかり塗り替えてしまう。いや、塗り替えたいという気にさせてくれる。非常に野心的に、「一つの料理についての知識」以上のものを与えてくれる本なのです。
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