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動物の世界にも「児童虐待」が存在する?! 子殺しの進化心理学

ヒトの子殺しには文化的要因も重要

これまで述べてきたように、ヒトを含めた動物の子殺しの研究において、進化の観点に基づいたアプローチは成果をあげてきました。そのうえで、ヒトの子殺しの理解には、進化の観点に加えて、文化的な要因も考慮することが重要であることが示されています。ここでは、長谷川寿一と長谷川眞理子の両氏による、戦後日本における母親による実子殺しの研究を紹介します(注12)。

日本における殺人には、諸外国と比べて発生率は低いものの、発生件数全体における母親による子殺し(嬰児殺し)の割合が高いという特徴があります。1歳未満の乳幼児100万人のうち母親に殺された子の数は、日本では1955〜80年のデータで年間90〜120人という値で、同時代の欧米諸国の値と比較して2倍以上の高率でした(その後低下して、1995年で約40人、近年では年間10人程度まで減っています)。

進化の観点から考えると、母親が実子を殺すことは通常は適応的ではありません。実際、動物の世界で母親による実子殺しはかなりまれです。母親による子殺しや育児放棄には、特別の理由があると考えられます。例えば以下のような場合です(注13)。
① その子の生存確率が低く、世話をしても死んでしまう確率が高い場合
② 必ずしもその子の生存確率は低くなくとも、将来より良い条件での配偶が見込まれ、その子よりも将来の子供を育てるためにコスト(時間とエネルギー)をさいたほうが、長期的には有利となる場合

ヒトの場合、母親による実子殺しの理由を分類すると、おもなものは以下のようになります。
①子が奇形、病気、病弱である。双子である。
②上の子と下の子の間の出産間隔があまりにも短く、十分な養育ができずに上の子の生存を危うくする。
③貧困
④父親が不確かか、または不倫の子で、父親を含む周囲からの養育援助が見込まれない。
これらの理由は、動物の世界における母親による子殺しや養育放棄の一般的理由と重なっています。

日本における母親による子殺しの原因で最も多いのは、上記の④に相当するものと考えられます。このことは、母親により殺された子のなかの摘出子と非摘出子の割合を調べることで裏付けられます。例えば、1955年の母親による嬰児殺しのデータによると、調査された52件のうちの29件(約56%)において、殺された子は非摘出子でした。1955年に生まれた子のうち非摘出子の割合はわずか1.7%であることから、非摘出子が母親に殺される確率は、摘出子が母親により殺される確率の約33倍にもなることが分かります。これより、父親を含む周囲からの養育援助が見込まれない場合に母親による実子殺しが生じやすいことが示唆されます。

日本では、シングルマザーが社会的に受け入れられず、社会的サポートが乏しいことが、上記④の状況が多く発生していたことと関連しているという指摘があります。さらに、長谷川寿一・長谷川眞理子の両氏によると、母親が子を独立した個人としてではなく、母親と一体のものと捉えるという日本の伝統的な考えが、子の生存権が侵害されやすい結果につながっているとも考えられます。

このように、戦後日本における母親による実子殺しのデータは、ヒトの子殺しの理解には進化の観点だけではなく、文化的な要因も考慮することが重要であることを示しています。

適切なサポート体制を確立するために

ヒトの児童虐待による死亡事例において、その理由や背景はケースごとにさまざまで、決して一つのパターンに当てはめられるような単純なものではないでしょう。しかしながら、全体の傾向として、どのような要因が組み合わされた場合に虐待が発生しやすいのかという知見を明らかにしておくことは、児童虐待による死亡を予防するための適切なサポート体制を確立するうえで重要でしょう。

今回取り上げた進化の観点は、そうした知見の解明に役立つ可能性があります。また、進化の観点に基づいた研究の成果として、文化的要因の影響が存在することがデータに基づいて示された例も紹介しました。学際的なアプローチを駆使することで有効な対策が講じられ、日本では現在横ばい状態にある児童虐待による死亡事例数が減少に転じることを願ってやみません。

 連載第10回は8月10日公開予定です。

このコラムの著者である小松さん協力のもと、役者の米澤成美さんが作成したコラボ動画も公開中です!

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小松正

こまつ・ただし
1967年北海道生まれ。北海道大学大学院農学研究科農業生物学専攻博士後期課程修了。博士(農学)。日本学術振興会特別研究員、言語交流研究所主任研究員を経て、2004 年に小松研究事務所を開設。大学や企業等と個人契約を結んで研究に従事する独立系研究者(個人事業主) として活動。専門は生態学、進化生物学、データサイエンス。
著書に『いじめは生存戦略だった!? ~進化生物学で読み解く生き物たちの不可解な行動の原理』『情報社会のソーシャルデザイン 情報社会学概論II』『社会はヒトの感情で進化する』などがある。

Twitter @Tadashi_Komatsu

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