2023.6.8
幸福感は「自殺」に対する防御メカニズム? 進化心理学で「自殺」を考える
自殺が多い理由
ヒトは苦痛から逃れたいという欲求を持っています。この点については他の動物も同じでしょう。しかし、ヒトは他の動物と異なり、苦痛から逃れる有効な方法を理性によって考案することができます。その結果、すでに述べたように、自殺すれば苦しみも消えるという事実に基づいて、自殺が苦しみから逃れるための有効な解決策であるという結論を合理的に導くことができてしまうわけです。
自殺を実行するのに特別な専門知識は必要ありません。崖から飛び降りる、毒を飲む、刃物で手首を切るなど、やろうと思えば誰でもできてしまいます。さらに、自殺は伝染しやすいことが分かっています。著名人が自殺したという情報が広まると、それに影響されて自ら命を絶つ人が増加します。この現象は「ウェルテル効果」と呼ばれていますが、この名称は、ドイツの文豪ゲーテが「若きウェルテルの悩み」を出版した際に、主人公を模倣するように数百件の自殺がドイツ全土で発生したことに由来しています。最近の研究によると、ウェルテル効果は非常に強いものであるようです(注9)。例えば、1962年のマリリン・モンローの死は自殺の可能性が高いと報道されましたが、1カ月で200人の自殺者を増やしたと推定されています。
ヒトは精神を高度に発達させた結果として、道徳や正義に反する不幸な事態にみまわれたときに、心に大きな傷を負うというリスクを背負うことになりました。ヒトにとって自殺は、苦痛から逃れるための合理的な方法であり、それを容易に実行できる手段があり、さらに伝染しやすいという条件を満たしています。このように考えると、ヒトという心が傷つきやすい生物において、自殺が死因順位の上位を占めることも不思議ではないと思えてきます。
自殺を防止する文化
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人類は進化の過程でアフリカから各地へと進出しました。新たな環境での生活は、過酷なことも多かったはずです。特に高緯度地域では、凍てつくような気候の中で、風雨と戦い、隣人との激しい競争の中で、絶望する機会はいくらでもあったことでしょう。人類の歴史上、人口が非常に減少した時期があったことが示唆されています。その原因として戦争、疫病、火山の噴火による気候変化などが考えられてきましたが、自殺の流行もあったのかもしれません。
ヒトが容易に自殺する生物であるならば、過酷な状況におかれたであろう人口減少期に自殺が流行し、そのまま絶滅していてもおかしくないように思われます。しかし、実際にはヒトは世界各地で生き残りました。このことから、ヒトには自殺に対する防御策が備わっているという可能性が考えられます。そうした防御策の一つは、自殺に対する文化的障壁の存在です(注10)。
多くの宗教は、死んでも精神は消失せず、死後の世界で存在し続けるという信仰を作り上げています。これにより、自殺により自分の精神を消すことができるという前提は否定され、自殺しても苦しみから逃れることはできないことになります。これでは、自殺しても無駄です。さらに、自殺すると死後の世界で苦しむことになるという教えをもつ宗教もあります。特にイスラム教では、自殺者は罪人と同じく死後に地獄で苦しむという信仰が強くあります。苦しみから逃れたくて自殺しても、ますます苦しむことになるというわけです。
中世キリスト教では自殺は大罪とされ、自殺者はまともな埋葬を受けず、心臓に杭を打ち込まれました。多くの国で最近まで、自殺は犯罪とみなされていました。イギリスでは、自殺未遂が非犯罪化されたのは1961年です。1961年以前の10年間に6,000人近くが起訴され、そのうち5,400人が有罪となり、禁固刑や罰金刑に処されています。
また、自殺の情報に触れる機会を制限することで、その影響を抑えようとする取り組みも行われてきました。ヨーロッパでは、ゲーテの本の影響が明らかになった後、すぐにいくつかの国で出版禁止となりました。ドイツでは、青いコートに黄色いズボンを履いた若きウェルテルのような服装をすることさえも禁止されました。現在、多くの国では、自殺の報道について、センセーショナルな見出しをつけないよう、報道に関する厳しいガイドラインが設けられています。
こうした文化的・社会的な仕組みが自殺に対する抑止力として機能していることは間違いないでしょう。例えば、イスラム圏で実際に自殺率が低いのは、イスラム教の地獄の教えと関係があると考えられています。
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