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幸福感は「自殺」に対する防御メカニズム? 進化心理学で「自殺」を考える

自殺に対する防御メカニズムとしての幸福感

文化的・社会的な仕組みとは別に、ヒト自身に自殺に対抗する防御メカニズムが備わっているという考えがあります。近年、臨床心理士であるクリフォード・ソーパーが、幸福感は自殺に対する防除メカニズムとして進化したという説を提唱し、注目を集めています(注11)。 

ソーパーの主張は、「人生で苦痛を感じ、そこから逃れるために自殺の誘惑にかられたときでも、生きることは価値があると考え、人生に希望を感じる個体は、自殺を思いとどまり、生き続けることができた。このように、人生は生きるに値すると肯定的に感じられる心性を備えた個体が生き残ったため、人類は生きることに希望や幸福を感じるという性質を備えるようになった」というものです。

さらに、ソーパーは、ヒトに高度に発達している自己欺瞞の能力についても、うえで述べた自殺に対する防御メカニズムとの関係で論じています。彼によると、ヒトが自分を欺くのは、他者とのだましあいという社会心理的な操作(注12)のためというよりも、厳しい現実をそのまま客観的に受け入れるのではなく主観的にゆがめて受け入れたほうが、生きることを希望に満ちたものと肯定的に考えるうえで有効であるため、と解釈できます。

ソーパーの説に基づくと、ヒトに備わっている幸福感や楽観という肯定的な心性は、ヒトが自殺という選択肢を持っていたからこそ進化したということになります。進化の観点を導入することにより、自殺と幸福、まさに絶望と希望という真逆の価値が表裏一体の関係にあるという彼の観点は印象深いものです。

ソーパーの説については、ポジティブ心理学やウェルビーイングの心理学で扱われているテーマを、進化に関する概念や用語を用いて言い換えたものと考えられるという指摘があり、特にポジティブ心理学における「苦しみを通して栄える」という理論との類似が注目されています(注13)。別々の学問分野で発達した概念に共通性が見つかるというのは研究の醍醐味ですが、進化の観点がそうした意味でも有効なアプローチであることをソーパーの説は示しているようです。

「自殺」研究の価値

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今回は自殺というテーマについて、ヒトの進化の観点を含め、いろいろな知見を紹介しました。このテーマを扱う人たちの多くは、何とかして自殺を減らしたいと考えています。一時しのぎの対策ではなく、根本的な解決策を確立したいとの思いで自殺の問題に取り組むうちに、人間の本性とは何かという問題に相対するようになり、進化の観点に到達するという研究者は少なくないようです。

自殺という選択肢が可能となってしまった人類において、どのような場合に人は自殺を選ぶのか、どうすれば自殺を防止できるのか、という問いは、当然ながら自殺者の減少という目的のために重要ですが、学術的にも非常に興味深く、ヒトとは何かという根本的な問題に繋がっています。特に自殺と幸福が表裏一体の関係にあるという観点は、逆説的にヒトの本質をついていて、強い印象を受ける人が多いようです。確かに、絶望の只中から希望が生まれるというストーリーは古今東西の物語に散見されます。人々がそのような物語に引き付けられることについても、今回のテーマを踏まえると、改めて感慨深く思えてきます。

今回紹介したさまざまな研究が今後も発展を続け、その成果が自殺に関する新たな視点の獲得に繋がり、人々の幸福に寄与する結果となることを期待したいです。

 連載第9回は7月13日公開予定です。

このコラムの著者である小松さん協力のもと、役者の米澤成美さんが作成したコラボ動画も公開中です!

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小松正

こまつ・ただし
1967年北海道生まれ。北海道大学大学院農学研究科農業生物学専攻博士後期課程修了。博士(農学)。日本学術振興会特別研究員、言語交流研究所主任研究員を経て、2004 年に小松研究事務所を開設。大学や企業等と個人契約を結んで研究に従事する独立系研究者(個人事業主) として活動。専門は生態学、進化生物学、データサイエンス。
著書に『いじめは生存戦略だった!? ~進化生物学で読み解く生き物たちの不可解な行動の原理』『情報社会のソーシャルデザイン 情報社会学概論II』『社会はヒトの感情で進化する』などがある。

Twitter @Tadashi_Komatsu

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